鶏大根を炊きながら、年賀状を描いていたら、お箸でつまめないほど、トロトロになってしまった。絶対手作り!と、言ったそばから、デザイン画も、はたまた版画さえもサボってしまった手抜き作。。。とは、いえ、絵の具の即興画?なので、手作りには違いないのだが。作家の池波正太郎さんは、必ず直筆で、手製の絵も加えるため、毎年年賀状は5月ごろから、書き始めるとおっしゃっておられた。もちろん、枚数が半端ないせいでもあろうけれど、それでも、その真心というか、誠意が素晴らしい。何事も、一事が万事なのだろう。毎年、ジングルベルと、ケーキの安売りを聞いてからで、お尻に火がつかないと筆がもてない私には、とても耳が痛い話である。なので、今年こそは、イブの声までに書き上げるつ・も・り、なのだが。。ところで。海外に出かけるたびに、その国の言葉をもっと勉強しておけばよかったと思うのと同じに、毎年この季節になるたびに、筆をもっと日ごろから書けるようにしておけばよかった、と思う。思うだけなら、サルでも出来る??。
それにしても、こんなに長閑で、穏やかな師走でいいのだろうかと思うほど、我が身の周りだけは、世間の忙しさ?と、程遠い。「こんなんでいいのだろうか?」。思わず、こぼれたこんな言葉が、はて何度、日記に記されただろう。それでも、かろうじて一件だけ、忘年会のお誘いはあった。ただ、会社が催すのに会費制と、耳を疑うご案内に目がてんになり、飲めない身、懐の寒い身では、どうにも楽しめそうもなく、不義理の返事をした次第。ときに。忘年会ってなんのためにあるのでしょう。飲みたい人の口実?ただの憂さ晴らし?それとも、予算償却?どこかの道路工事みたいに。普段、顔を合わせない部署の人たちと、雑多な意見を交わす場というのなら、分かるけど。。。飲まずに言えないことなど、言わなきゃいい!というのは、ちょっと減らず口が過ぎるでしょうか。どちらにしても、飲めない人に優しいそれはないものかしらん。アルコールに弱い者は、密室だとその呼気で充満する空気だけでも、次第に酔ってしまうのです。と、まあ、賑やかな場に無縁の分際で偉そうに、ですけど。。
「文章もありふれた“日常”を切り取る感性のなのかもしれぬ。写真家のそれみたいに。してみると、日記や恋文というものは、“こころ”を切り取るそれだろうか。どこかにスポットをあてるということ。その一点を深く掘り下げてみるということ。そしてそれを多角的に眺めてみるということ。そんな根気や、ゆとりや、愛情の心象風景みたいなものなのだろうか。」(週末ノートから)。小さいころ、よくお腹を壊し、くず湯のお世話になった。文章や音楽にもそんな感性のカゼ薬みたいな効能かあるのかもしれない。ほどよく、やさしく、ほどよく、温かく、ほどよく、口(喉)当たりがよく。作家の川上弘美さんという人が、ある年のベスト(本)を書いた章で、「日記のたぐいばかりを読んだのはなんだったのか。『解釈』をしにくいものを読みたかったのかもしれない。『解釈』、日記でもむろんできるが、解釈しては無粋である。そこに甘えたかったのかもしれない。決して『ノンフィクション』として読んだのではないが、かといって『フィクション』ほどの押し付けがましさもない、そういうものを読みたかったのだろう」と書いている。ともあれ、とにかく無事で、今年を終えることができますように。