やわらかな語り口のものを続けて読んでいると、時折、はっきりとした断定口調で、力強くその論を展開しているこ難しいものを読んでみたくなる。鷲田氏が書かれたソフトカバーの選書などもそのひとつかもしれない。余りにもこちらのこころを言い当てられたようなタイトルに思わず、手が伸びた。文字通り哲学的で、観念的なのだが、読み手にそれぞれのこころに考える余地を残してくれているというか、咀嚼するチャンス、思索のきっかけを与えてくれる内容。「ことばの顔」に登場するエッセイもそうだけど、およそ難解な語彙をひたすら駆使しつづける方が多い中で、そのウイットというか、時に軽快で、明快でそよ風のような爽快さまで持ち合わせた文章のセンスに驚嘆、敬服ずにはいられない。(自分が、在学中もおられたのだろうか。そのほとんどを同じ建物の教室で受けていたはずなのだが。嗚呼、知っていたら、単位に関係なくとも授業を是非受けてみたかった。)
近頃、無性に勉強がしたくてしたくて仕方が無い。恐らく、なかなかまとまった時間をとれないからこその、“へそ曲がり的”衝動なのではと問われると、そうかもしれないと答えてしまいそうなのだけど。(毎日好きなだけ、ゴルフをしてよろしいという環境になったとき、授業時間があるからこその遊び時間、苦しい時があるからこその愉しい時間、という感じの悦びはどこかに行ってしまうのと似ているのかしら。)ともあれ、これまで本当に真剣に勉強したと言えるのは、中学の3年間だけで、これが、人生2度目の(脳細胞の)耕作期かしら、なあんてひとりで思っている。そこで、「なんのため?」なんて問われると、一気に興ざめになってしまう。特段、特定の目的の無い(知的)欲求だからこそ、こんなにも貪欲になれるに違いない。ただ、知りたい。いろいろな人の考えを、知恵の方法を。そんなところだろうか。(ときに。とても個性的で特徴的な筆跡だった箸袋の文字は、あの偉大な作家の方の筆だったと、後で知ってこれまた重ねて感心。教えてくれたのは、偶然立ち読みした近所の本屋さん。知ることは感動のはじまりなのですねぇ~。)
ほんとに余談ですが。あるときふと思った。グリーンに向けた攻めの一打を打つとき、(つまりパーオンショット、勿論バーディオンも含まれます)それは、敵陣に攻め込むときの将棋の一手にも相通じるものがあるのではないだろうか、と。(最近、日曜の目覚めの時間にテレビをつけると大抵、教育テレビがやっていて、寝ぼけた脳みそを起こすために、暫く見ている。ただし、やっと駒の動きを覚えたかどうかの初心者もいいところなのですが。)つまり、「成る」ことができるほどの敵陣に駒を送るとき、その潮目の読みを間違えなければ、一気呵成な有効手にもなる反面、それを誤ると、みすみす駒を失うばかりか、守りの態勢にも影響する。とまあ、大袈裟ですが、手前の花道以上の距離を狙う場合には、特に150以上の手前から一気に狙う場合には、くれぐれもご用心。ミスしたときのリカバリーがそれなりに難しくなりますよ。といった具合。どのルートで、どの高さでどこに落としていくのか、はたまた様子見で無難に、真ん中に置いていくのか。いずれにしてもすべての決断は極めて短時間のうち。これがまた醍醐味のひとつなのかも。(難しいライのアプローチはむしろワクワクするもの。)決めたら一途、中途半端な逃げ道用意するのは、かえってよくないし。タイトルだけ偶然見つけた「頭のいい人のゴルフの習慣」。これにはこんなこと載っていないかしらん。誠に、少々生意気(おしゃべり)が過ぎました。