歩道の石畳を一面に染めたその上を歩くのは、積もりたての新雪を踏みしめていくのとも、光る川面のそばで一面に広がる菜の花畑をベランダから見下ろすのとも、また違った趣きと少しもったいないような、そんな感慨があるものである。靴底がそれらに当たるさらさらと乾いた音と、微妙に大きさや色合いが違うグラデーションが、視覚に奥行きのある絵画を観るような心地よい刺激を与える。自然に触れるのが気持いいというのは、きっとこういう感触、感覚をいうのだろう。ひょっとしたら、私にも「古代人の感覚」(!?)があるのだろうか。(先ごろ偶然見たスピリチュアルなんとかの中で、思い当たる節が結構あった。)
ところで。茶の湯では、茶釜の湯が煮えたぎる音のことを、松風というのだとか。その梢を吹く音は、古来から琴や雨の音にもたとえられ、一方、六月の異称でもあり、風を恋しく思う頃、という意味もある。ひとつの言葉でこんなに多くの意味をもつことのできる情緒感が日本語の美しさの所以だろう。気持の通じ合うこと、またその人をさした言葉で、心合いの風というのもあるそうな。もともと和歌などにつかわれ、「心合い」と「あいの風」の掛け言葉で、自分の気持を察してくれる風のこととか。目には見えなくても、確かに繋がっているという感覚、安心感、和みの心地、この温もりは、言葉では尽くせない抱擁力がある。そんな気がする。