「街が人を変えるのではなくて、人が街を変えてゆく~」(あれ?逆だったかしらん??)という、歌詞が、このタイトルとは別のアルバムの中にあったけど。確かに、ビルを設計したり、建設したりという意味では、人が街を作るのだけど、それ以上に街が人をつくるのだなぁ~とつくづく思う。それは、素敵なお店が、同じ品(格)のある人たちを、自然に集めるのと同じみたいに。だから、文化とか、気品とか、そんな、数字ではとてもはかれないものを作るものにも、近いのではないだろうか。同じお給料をもらって、食べていくならどこに住んでも同じと言う人がいるけど、それは違う。考えや生き方が、知らず知らずにその人となりや顔をつくっていくのと同じに、どんな人と交わるかでも、その人の奥行きや佇まいは随分、変わっていくのではないだろうか。人がひとをつくる、のかもしれない。素敵な人が、さらに素敵になる。互いが互いの、眠っていたよいところを知らぬ間に引き出して、魅力を増やしていく。そんなひとと、共有できる時間と空間はどれほど、有難くいとおしいことか。


「遊びをせんとや生まれけむ~」これは、何が出典だったでしょう?(恥ずかしながら)。よく、浮かぶ言葉の一つ。ほんとに、意味の深い言葉だと思う。遊び心とは、すなわち心のゆとり、懐の深さだと思うのは私だけだろうか。「男はどこにいるのか」などを読んでいると、男の人にとってのそれの意味は、女の私などが思い及ぶはずのない、もっともっと繊細で、複雑なものなのだろうなぁ~と感じるけれど。女人禁制とされてきた能の舞台に、50歳まで立ち続け、そこで、男には及ばないものに気付いてやめたという白洲正子さんのお話がふと、浮かんだ。(生きていらしたら、是非会ってみたいひとのひとりに違いない。)(一緒にしたら、ものすごく僭越だけど、ハバナで9回を完投したとき、女が男と同じグラウンドに立つことは、何かが「違う」と思った。21だった。その何かが、最近やっと少しわかりかけてきたように思う。2アウトランナーなしからのファーストとか、投げる必要のないところなら、可能かとも思うが、そんな実技的なこととは異なる別の、「何か」。)ともあれ、昭和40年代に、東京から、故郷の街までタクシーで帰った夫婦の血筋である。「商人~」に程遠いのだけは、間違いない(でせう)。


「ヤバイです」これが、最大級の愛(情)表現でなくて、なんであろう。最初目にしたとき、そう“直感”したのに、「同感です」と返せなかった、自分の意気地のなさを何度悔やんだことだろう。もう、随分前のお話。例えば、エレベーターで「あ、今、少しだけ停電してくれないかなぁ~」と思っても、とても口にできないのと同じ、なのかもしれぬ。雨の午後、好きな本を一冊だけ抱えて、はしごを蔦ってこっそり納屋の二階に上がり、藁のなかに転がっているのが結構好きだった。田舎ものである。ちなみにその納屋にはかつての厩の部分もあったっけ。農家の出である。ひとを蹴落としてまで競争したり、何がなんでもお金を稼いだり、ひとより偉くなって地位を築いたり、そんな精神は、元来持ち合わせていないよう。どれにも心からの魅力を感じない。自然を楽しみたいし、綺麗な風景を眺めたいと思う。自分の中の何かも含めて、何かを育てたいし、まだ知らない智恵をもっともっと知りたい、そう願う。ゴルフのホールにも幾つものルートがあるように、人それぞれの生き方、考え方があってもいい(のではないかな、改めてそう思った)。


追伸。ところで、ストレートボールの鍵は、やはり軸腕(私の場合は右手)のグリップにあるのでは。ずっと考えていた。「頭を動かすな」「脇を開けるな」「打つまでボールを見よ」「手首を曲げるな」。これらは、どれも大誤解もいいところの教訓だけど。同様に、ツーナックルスリーナックルは嘘である。正解はフォーナックル。フックグリップはフックを打つためのグリップでは決してない(と最近知った)。人差し指の第一関節と、脈とは逆側の手首の上にくる掌の丘(つまり小指下方の丘。)を結んだ線で深く握る。自ずと手首は深く曲げることになる。(手首を曲げてはいけないというのは、パター同様、打ち始めてからその角度が変わってはいけない、という意味でしかない)。そして、この手に向かい合う形で利き腕を下から添える(ひじの内側が前を向くぐらい)と、インパクトで手は返しづらいし、格段につかまったボールが打てる。ので、よかったら一度お試しを。