本にも出会い方というものがある(ように思う)。無論、私(なり)の方法なのだけど。▽とにかく“今”読みたいもの▽ゆっくり考えたい(ねかせたい)もの▽ものずごく欲しい。でもだからこそとっておきのときまで我慢して、書店というもうひとつの書棚に置いておくもの――。
まずひとつめ。今すぐというのは、どこか性急で、衝動的で気持ちを確かめる余地もなく、慌てて買うだけの価値に耐えうるか否かの判断が困難。だから、雑誌だったり、ちょっとHな内容の(たとえば、女は男のどこを見ているか、とか、「もてる」「もてない」とか、そんなもの)だったり。所謂、ちょいとくだらないけれど、どうにも面白そうで好奇心がかきたてられるもの。(たいてい、しばしその棚を離れ、書店を一周しても気持ちが変わらなかったら、これもなにかの縁!と思って買うかな。)
ふたつめ。これは、偶然書評や、紙面で目に留まった作者であったり、既に何冊か読んでおり、その著書の中の論の展開に興味を惹かれていたり、あるいはパラパラめくって面白そうだと直感したり、まあ、そんな感じ。文庫などの場合はそのままどれどれと、買うときもあるが、(やはりできれば本は単行本の重量と、ページの行間のゆとりが“読む”空間を拡げてくれる気がするので、)単行本の場合は、たいていねかせる。次に訪れるまでに、ずっと優先順位が、気持ちの高ぶりが、変わらなかったら(とする)。不思議なもので、いつまでも残っていくものと、どうでもよくなるものに分かれる。(もちろん、時をおいて、ある時、復活するものもあるけれど。)
そして、さいご。これは滅多にお目にかかれない。もう、“運命的”とでもいおうか。ひょっとしたら、別の時に、別の場所で、別の出会い方をしていたら、その魅力に気付けなかったかもしれない。これも、見えない糸のタイミングだろうか。なぜ、それに目がとまったのか、手を伸ばしたのか、どんなふうにしてその棚の前に立ったのか、わからない。あるいは、偶然手にして、なんとなく買って、読んでいるうちに惹かれて惹かれてしかたなくものもある。たいていは、すぐに買いたくて買いたくて仕様がないのを我慢して、「よし、今日こそ」ととっておきの日に再会する。
これも、そんな一冊だったのかもしれない。なんとくパラパラと読んで、棚に本を戻して帰ったが、ふとんに入ったらその言葉がなんども心に蘇り、もういてもたってもいられないほど、欲しくなって翌日、普段は寄らない街で途中下車してまで、探し求めた。吉本隆明著「超恋愛論」。「細胞と細胞が呼び合うような、遺伝子と遺伝子が似ているような――そんな感覚~。~。条件も何も関係なく、~、赤の他人なのにまるで双子の兄弟のような感じ~。~、やはり稀有なものです。生涯のうちにそう~ないと思います」。とても、心が深くて広い、ぬくもりと優しさに満ちた人なんだなぁ~、時ととともに、そのおもいが深まっていった。