再び、“彼”の話をしたい。思えば、サッカーボールのような大きさでひろわれて我が家にやってきたのは、15年と8ヶ月前。そうか、私とは20歳違うのだ。初めて会ったその日から、毎日毎日散歩もご飯もずっと一緒で、その夏、夏期講習とやらに2週間上京し、家を空けた後、帰宅したときの、彼の狂喜乱舞といったらただものではなかった。迷子がお母さんとやっと会えた時のなき声にも、興奮にも負けずと劣らじ。感動の対面は、3分間くらいは続いたろうか。大学に受かり、最初の一年で、家を離れた私だが、帰宅するたびのその喜びようを見ると、「もうこのためだけに帰ってきたといってもいいくらい」だった。ただ、3分はいつしか30秒になり、3秒になり、ついに今では、車の音にも、足の音にも微動だにせず、眠る肩をゆすられてやっと、目の前にいるひとが誰だかわかるまでに、30秒かかるようになってしまったのだが。それでも、遅ればせの、ささやかだけど、「おっ!」という感動も、なかなか味わい深くていいものがある。


そんなわけで、日中のほとんどを夢うつつで過ごす彼なのだが、こちらが外で作業をしていると、うんともすんともいわないけれど、いつもの定位置ではなく、精一杯届くところまで移動して、こちらの姿が見えるところ、というより、こちから自分を見てもらえるところだろうか、に静かにいるのが、たまらなくいとおしい。それでも、彼なりの矜持というか、機微がある。こちらが、「さあおいで」「来て来て」といわんばかりに、腕を広げるのはあまり好ましくないらしいのだ。かつては、こちらが石段に腰掛けるやいなや横にまわり、顔と足をこちらの脇の間からひょいと出し、「待ってました」といわんばかりに、さっと膝の上にのっかって、15~20分もしてから、「さあ、そろそろ降りる?」というと、決まって身支度するように座りなおし、「やだ、もうちょっと」と、それを3~4回してからしぶしぶ降りていた。それが、この頃は、彼なりのタイミングというか、空気のようなものがあって、ちょいと難しい。


かと思うと、不意に、ものすごくはっきりした意志と力強い動きでもって、こちらのからだに寄せてくるときがある。まるで、たまらないいとおしさでもって、抱き寄せるかのような、そんな強さのある動きが(ときには、見えない空気だけであったり)。そこいらへんの機微について、メスというものは、まことに鈍感であり、ずっとずっと後になって、それを思い起こして、テープを何度も何度も頭の中で再生してはじめて、そのときの相手の想いに気が付くような、ケイコウトウぶり。いつも見えないところで、そんな忍耐を続けているのだろうか。世のオスたちは。もっとも、なにもかにもすべて、恐ろしく鈍感で機微を解するのに手間取る、メスがいけないのだけれど。彼にしても、やっぱりメスの私には、すべてを即座に理解するのは、大変難しく、でも、だからこそこんなにもいとおしいのだろうな、とも思う。そんな機微の中には、照れや、恥じらい、そして誇りや、言うに言えないもどかしさが混じっているのだろうか。正しく“聴く”とは、ほんに難しいことである、と、しみじみ自戒を込めながら、かはらぬ想い(信念)を抱きしめなおしているところ。