こんな詩がある。「みあげていようよ 空の星を/せいいっぱいがまんして/ためこんでも/まつげをうつし/まぶたをこえて なにかが/あふれだしこぼれおちてゆくね」、愛と書いてかなと読ませるながいながい詩の途中。あふれだしこぼれておちていくのは、きっと深い深い愛なのだろう。同じ詩集の別のページの一節には、こんなのも。「あんまりうもういかへんけど、なにゆわれても/好きやねん。/ひとを好きになれへんかったら、/愛せへんかったら、/ほかになにがあるねん。~」。それから、先の詩は、こう結ばれている。「いつもの/えくぼみせて」
小さな感激があった。それは、街角の小さなカレー店。インド人一家がやっていて、かつて、半年と少しの間毎週のように行っていた。狭いから、よく相席になる。見ず知らずの人と空間を共有する(それも、食べるなんて最も無防備で、恥ずかしい行為なのに。。)のが苦手な私が、それでも訪れる数少ないお店。いつも混雑(ピーク)時を少しずらし、ひとりでマトンかチキンの辛いカレーをナンと一緒に食べる。焼きたてのナンは手でちぎり、カレーはスプーンで。(どちらもきちんと味わいたいから)敢えてカレーに浸したりはしない。でも、最後にお皿についたカレーだけは、ナンで綺麗に残さず食する。いつも一番安いコースしか頼まないのに、いつのころからか、コーヒーがついてきた。でも、事情が変わり、もう一年以上も行ってなかった。先日、たまたま近くに用があってふらりと訪れた。周りのランチ客同様、食事を済ませて立ち上がろうとすると、目の前にさっとカップが現れた。ただ、それだけ。別に笑顔のひとつもないのだが。ささやかだけど、こころがとてもほころんだ。
「心耳を澄ませて無声の声を聴く。」外部から到来する声に、注意深く耳を傾けること。自分の身体の内側から発信される微細な身体信号をそっと聴き取ること。これは、武道に限らず、哲学に限らず、人間が生きていくときの基本的なマナー。微かな信号を聴き取るために、そっと耳をそばだてるときに、人間の身体は一番柔らかく、一番軽く、一番透明になる。人間が一番無理なく、リラックスしている状態というのは、誰もいないところで一人でただずんでいるときではなく、外部から到来する「声」に静かに耳を傾けているとき。茶を点てるのも、香を焚くのも、美味を味わうのも、音楽を聴くのも、書物を読むのも、ビジネスをすることも、~ どれもめざしているのは同じ構え。それは「聴く」ということ。なのだそうだ。深く納得。「疲れすぎて眠れぬ夜のために」(角川文庫)是非、一読をお薦めしたい。無論、相変わらず、がばがば寝ている私なのであるが。。。(ご心配かけてすみませぬ。)
その中には、「身体の各部が自律的に活動すれば、たとえば、心が恐怖や焦りを感じているときでも、身体能力はそれとはかんけいなくふだん通り活動する」のだそうだ。「武士が歩いているとき、その意識は『背中』にあった」「最近の女性は、背中が鈍感です」。ともある。卓越したラグビーやサッカーの選手には「スキャンする」能力が備わっていて、背中に目があるという。なるほど。確かに。空間把握に細かな神経を張り巡らしてこそ、華麗な芸術的プレイが生まれるのだろう。無論、わたしは、そんな天才でもなんでもないけれど、いくつか思い起こせる背中の感覚がある。それは、温もりのある視線、だろうか。いずれも、しばらくたって、ひょっとしてあの時?というものばかりなのだが。ともかく、忘れがたい瞬間である。