いつだったか、こんな話を聞いた気がする。秋の名月というのは、実は二つ(つまり2回)あって、新暦9月の所謂、中秋(今年は25日)と、10月のそれと。願い事は、この2回ともにしたほうが、より叶うのだ。とか。もしかしたら、咄嗟に、自分に都合よく下した判断と解釈が、多分に混じってしまっているかもしれない。けれど。信じたいから、そう、信じていた。だから、あの名月の日から、ずっとこの日を待っていた。待ってました。信じてました。である。


押し入れから、ひざ掛けを出してきた。気付けばもう、そんな季節である。といっても、恥ずかしながら、昨年乗った北欧便から、その性能のよさが気に入って、思わず記念にと失敬してきた一枚であるのだが。。。(薄くて軽いのに実に暖かい)。思えば、明日はもう、霜降(お肉の話ではない。念のため。)である。


いつだったろうか、恐らく、ペナントが始まる直前だったろう。敵将がつぶやくように言った一言があった。「うん、まあ、ふつうにやってれば、うちが勝つでしょう」と。たとえ、事実がどうあれ、自信がどんなにあったとしても、決して言ってはいけない言い方のように聞こえた。そう、いつかの、シリーズで今はなき某チームの投手が言った「リーグ最下位のチームよりたいしたことない」の(暴)言に、劣らない礼を欠く言葉に聞こえた。だから、どんなことをしても、勝ってほしかった。だから、ちょっとかなしく口惜しかった。(82年の最終戦で決まった時と、同じくらいに。ほかのどこより、あのチームに負けたときが一番くやしいのはなぜだろう。)


いつだろう、まさにゴルフの恩人と言っても言い過ぎではないほどに、とてもたくさんのお世話を下さった方(マナーやルールの多くを教わった。)が、突然に、あまりに突然に亡くなられたという報を聞いた時だった。なにかこう、胸を奥をドーンと突かれたような驚愕と、事態をうまく飲み込めない動揺に包まれて、しばらく何も手につかない状態になった。そんなときもらった、「偲ぶことが、なによりの供養になるのでせう」の、ひとことにどれほど慰められたか。どんなにうれしかったか。どんなことも、時が慰め、和らげてくれる。それは、わかっていても、ときに、神様は、とても元気で魅力溢れる人を急いでそばに呼びたがるのだろうか。そんなふうに思えてしかたないときがある。


「いつの頃からか男は女の寝巻の紐をつかんで眠るようになった~」と始まる一編の詩がある。城山三郎さんの「紐のつながり」である。ひものゆとりが長いと女の体には自由が残るが、男の指にはそのぬむもりがつたわらない、ゆとりが短いと、ひもは女の呼吸を伝えてあたたかいが、寝返りひとつでつながりは切れる、と綴られている。そのつながりがいつまで続くかは、男も女も考えない。女は気付かずして考えず、男は考えまいとして考えない。(とある。わたしは、「気付かず」ではなく、ほんとは気付かないふりをして、だとちょっと思う。)そして、こう結ばれている。「生きて在る限り/目に見えぬ紐のつながり/男と女の間の/長いゆとり 短いゆとり/この世との/長いゆとり 短いゆとり」。読むたび、愛するひとへの想い、余り多くを語らず逝った父へのおもい、さまざまな思いが一度に溢れてきて、こみあげてくる涙をどうしても抑えることができなくなる。