あなたが居るから頑張れる。そう思うことは幾度もある。恐らく、だれにとっても、愛する家族をおもうのは同じなのだろう。でも、時折、自分の中で気まぐれに顔をだす、“いい子ちゃん”や“正しいこと”への反発と葛藤がこころをチクチクいたくする。そんなとき、小さな路地を通ると、鼻孔の奥を甘くせつない香りで刺激する金木犀が、ささやかな救い。


「女はなぜ、裸になりたがるのか。」 その答えは、塩野女史が書かれた「男たちへ(副題はあえて省略)」にある。実に、痛快で歯切れの良い文句が幾つも現れ、胸がすく思いがする。まだ、はっきりとした言葉にはならないで感じていることを綺麗に代弁されているかのよう。例えば。その答えがそう。その一部は、凡そ次の通り。「男たちよ!女には、頭のできのいかんにかかわらず、あなたがたと同じ種類の「見識」を、二十四時間中の二十四時間、求めてはいけないのです。八時間ぐらいが限度だと思っていたほうが、無難なのです。~ 要するに、すべての女は、程度の差こそあれ、自分の本来の性(=つまり、赤裸々になりたい)とそうでないそれに反した言動を、どこかでバランスをとって生きていきるのである。」 とか、「わたしたち女は、男を尊敬したくてウズウズしているのである。男たちよ、その期待を~」 とか、「よく言うではないか、不幸な女は、百メートル先からでもわかる、と。~ 女というものは、幸福であろうと不幸であろうと、なぜか身体全体にかもしだす雰囲気となってあらわれてしまうものである。これはまったく、美醜も身なりの貧富もかくすことはできない。では、男の場合も同じことが言えるであろうか。~」とか。


お伽話、シンデレラには、あらゆる教訓と、おんなたちの切ない願いが詰め込まれているような気がする。シェイクスピアに答えを求めてみたい、と、唐突に思った秋の夕暮れであった。