子供の頃、父か母、どちらと一緒に(買い物などに)出かけても、帰り際、決まって喫茶店に入るのが慣わしだった。バスが来るまでの時間待ちだったり、歩きつかれてのちょっと休憩だったり。家の周りは、見渡す限り田畑ばかりの田舎育ちなのに、車が家に無かったお陰か、少しばかり粋な空間を知っていたことになる。今思えば(だけど)。父や母は決まってコーヒーを注文し、私は必ずオレンジジュース。夏になると、アイスクリームが定番だった。今のように、街角になんとかバックスなどの舶来のチェーン店があるはずもなく、お茶をするところといえば、駅前や、路地裏の喫茶店が当たり前。よく行くひとつに、いつも綺麗におしゃれをしたマダムがいるところがあり、そこは、その辺の田舎町ではどこに行っても見つからないような洒落たカップで出してくれた。でも、子供連れの客はほとんどなく、ジュースを飲み終えると、周りの大人たちを観察する以外、とても手持ち無沙汰だったのを思い出した。あの店は今もあの駅前にあるだろうか。


だからかしらん。今でも、白熱灯が煌々と降り注ぐ大きなカフェより、路地裏の小さな喫茶店に自然と足が向く。より一層ホッとできるような気がするのだ。普段の食事は質素でも全然、苦にならない体質ゆえ、オレンジ色の看板が目印のチェーン店で食事を済ませたとしても、一杯700円のコーヒーのある空間にどうしても身を置きたくなる。外出先の空気をそのまま家に持ち帰りたくないとき、ホッと時空間に句読点を打ちたくなるとき、幸運にもゆっくり読みたい書物が手元にあるとき。そんな時々に、ふらりとお店に通じる階段を上ってしまう。ただ、唯一の難点を言えば、注文された飲み物によってではなく、その人の(恐らく衣装、雰囲気で)カップが決められてしまうこと。カップルだと、ピンクとブルー、朱色と濃紺などの色付きで、お洒落な女性たちだと、また違う。そして、判定不能だと、白が来る。一度、ほんとに犬の散歩に行くような敗れたジーンズで行ってみたら、やっぱり白だった。時々、そのことをすっかり忘れ、あまり垢抜けない(いつもだが)格好で行ったとき、なんだか客を値踏みされているようで、少し悲しい思いをすることがある。


「明日が来る/もうすぐ来る/でも今日は一生なくなる/さびしい」。ちょうど2年前の今ごろ、初めて訪れたその街の小さな通りに面した画廊で、目にした作品。それは書道展で、とっても難しそうな作品が並ぶ傍らに、小学校4年生の男の子が作ったという詩が、味のある字でしたためられていた。タイトルは「明日」。純粋で、透き通るような感性に感心し、思わず手元の手帖に書き写したのだった。こんなふうに、一日一日を大切に送れたら。。。近頃、夏バテ気味のからだを励ましながら、そう思う。(ところで。さっきから、近所の犬が、憚りに行きたいから早く散歩に連れてってと悲痛な叫びを繰り返している。この前もあった。気になって仕方が無い。飼い主に声は届いているのだろうか。。。あ~、やっと連れ出してもらえたらしい。)