疲れきったこころとからだを少しでも癒さんと欲して、久々に雲の隙間から綺麗に顔をのぞかせた月を仰ぎ見る。ただ、呆然と、でも、ほんの少し厳粛なおもいで。ベランダで、静かに佇むひと時もなかなかにいいものである。目の前の、ひじょうに興ざめな太くて黒い電線たちを極力無視しながらではあるけれど。(一日に多くの人の“気”に接した後は、とにかく湯船のお湯にゆっくりつかって浄化するのが何よりの特効薬である。恐らく、その人のふだんの情緒量も変わってくるのではあるまいか。自分でも、その習慣を守るようになって随分、優しくなれた気がしてくる。)


それにしても、オバサンパワーは最強である。ときに、週刊誌の記者よりも厳しい質問を浴びせてくるし。女たちの19番ホールでの話である。ただ、ひたすら聞き役にまわるのには、これほど愉快で面白い会話はない、とも言えるけど。自ら話したい人のを聞き流すのを除き、個人的なことについては、ひたすら(余計なことはいっさい)「見ざる、聞かざる、言わざる」が至高の流儀であると信じている私にとっては、いささかつらい時間も待っている。どうして、女性は(だけでもないかもしれないが)、数字ではかれるものでしか、人となりの質問をしないのであろうか。そんなものは、それこそ記事を書くのでもなければ、(厳密には)別にどうでもいいことである。(好きな人が)どんな風に素敵であるとか、内面のかっこよさとはどんなものであるとか、どんなところに魅力を感じるだとか、そんな中味の事ならいくらでも話せるのに。野暮な質疑はたくさんである(いけない。愚痴になってしまった。)。それらをうまくかわすのに、それはもう昼間の何倍もの神経と知恵を費やしてしまった(ではないか)。


そんなオバサマ方の、会話のひとこま。いずれも、結婚して子供のいない彼女たち。「でも、だんな様は、昼間にこちらがいくら遊んで、自分のお小遣い稼ぎ以外の働きはしなくても、なあ~んにも、言わないの」。「うちもそう」。「でも、もし私が働いていてそれなりの稼ぎがあって、相手が余り働かなかったら、(女は)絶対、文句いうよね~」。「言う、言う。」「だから、やっぱり男の人は偉いよね~」。「う~ん」。「だからね、男と女は、同等ではないのよ~」。このあと、「やっとこの齢になってわかってきたわよ~」。と続くのである。(余りの真剣な彼女たちの話しぶりに、驚きを越えて、しばしあっけにとられてしまった。ちなみに、みな、私より、半まわり以上年上の方々ばかりである。)城山三郎さんが、そのエッセイの中で、互いの寝巻きの紐を握り合って眠ることを語り、妻への想いを記した文章を、読み聞かせたく思わずなった。愛とは何ですか?と。(勿論、余計なことは何も言わなかったけれど。)

残念ながら、私はこれまで、その著作を通してという以外で、心から尊敬できるような素敵な女性を余り知らない。それは、たとえば、家庭をきちんと守り育て、パートナーを深く愛し、安らかな空間を作る努力をし、教養深くて、そしてもちろん貞淑で、それでいて、精神的にもきちんと自立をしている、そんな大人の女性を。もし、そんな人を知ることができたら、とても幸せなことに違いない。それは、この上なくいとおしく、大切な人を一生かけて愛することができるのと同じくらいに。