夜になって、じんわり広がるものがある。伝わるものがある。朝読んだ一節が。頭の片隅に残っていた言葉の響きが。月の照るころになって、意味をもって目の前に現る。そして、じわじわとした温もりをもって、心にしみいる。あ~なんということか。ひとり感慨に浸る。ほかでもない、恐るべきケイコウトウなのだ。同時に、頭の中の再生装置が目まぐるしく回りだす。およそひと月前に耳にした言葉の意味に、突如合点がいって、ものすごくハッとなる。そして、慌てて書こうとするが、まるで足のもつれたカメのよう。あ~もどかしい。かつて、半年以上たって、やっと意味が分かったこともあったのだが。決して、記憶力がいいのではない、ほんに鈍いのである。その上、どうにも間が悪い。よりにもよってそのタイミングでという感じになる。後で知って、冷や汗がたらり。バツの悪さと申し訳なさと、そして嬉しさとがいちどにこみ上げてくる。
夜のとばりがおりはじめるころ、久々に芝生の上をあるきながら、空と海との境目が、あかね色から、橙に、そして、深い紫を経て、夜でも夕暮れでもないあの、澄んだ群青色のような濃い青をなんと呼んだらいいのだろうか、とにかく好きでたまらない色のひとつであるが、深まっていくその色を、葦の広がる池のほとりごしに眺めていたら、突如、その言葉が蘇ってきたのだった。遠くにちらばるビルの明かりと、自然の作り出す色の演出がとても素晴らしい場所である。宵のほんのひとときにしか目にすることのできない貴重な光景。そんな時間が、くれた贈り物に違いない。でも同時に、とてもそわそわ、あたふた、慌てて帰路につくことになったのだが。。。
恋愛とはいかなるものであるか、それを知るために一生の文学に探し続けているのだ。と、坂口安吾という文人が書いている。でも、確かその人は、その論の中で、こうも言っていたように記憶している。恋愛は、言葉でもなければ雰囲気でもない。ただ、好きだというひとつのことだけである、と。改めて、読んでみると、恋すとは、いまだ所有せざるものに思いこがれるようなニュアンスで、愛すというと、もっと落ちついて、静かで、澄んでいて、すでに所有したものを、いつくしむような感じがある、とある。そして、恋すという語には、狂的な祈願がこめられているような趣きである、と。これをこのまま受け容れるとするなら、落ちついて、静かで、澄んでいるのがいい。そんな風に、分けて考えてみたことなどないけれど、あの、関白宣言を書いた人の恋愛症候群なるものをくだいてみると、奪うのが恋で、与えるのが愛、と解説している。ともあれ。心の中に確かに存在するもの(がある)。「ある」という実感の悦びこそ、そして気づけたことのしあわせこそが、かはらない優しい風を運んでくれる。潮の香りとともにやってきた柔らかで深みのあるその風の趣が、忘れられない夏の夕暮れとなった。