ある朝、ある小さな駅でのひとこまである。4、5歳くらいの男の子にそのお母さんがしきりに質問を投げかけている。「マックと、コトブキどっちにするの?」やや、怒った口調である。半泣きの男の子は、声にならない声で「マック」。ホームの反対側で列車をまっていたのだが、何しろ小さなホーム故、よく聞こえる。どうも、出掛けにその子がぐずぐずして、予定の時間に出発できなかったらしい。いつもは、その両方に寄るのだが、その日は時間がないから、どちらかしか無理だと母親が言っている。何度も何度も同じ質問を繰り返し、その度に同じ返答。ところで、マックは分かるけど、コトブキって何だろう?ちょっと気になる。で、苦しそうに二者択一に迫られるその子に母親は何度も言うのだ。「ほんとに行かなくていいのね」と。その度に泣きべそが大きくなる。どうして、そんな風に詰め寄るのだろう。仮に、行けなくても「じゃあ、もし時間が余れば行こうね」ぐらいにしてあげられないのだろう。女(性)とは、いつもこんな風に男(の子)のナイーブな心を無神経な言葉で傷つけてしまっているのだろうか。人ごとながら、ちょっとその子に同情したくなった。もう、ひとつ前の季節の頃のことだけど。


この秋、あの新国劇出身の、名優がひとり舞台をするという。しかも、原作はあの「シラノ・ド・ベルジュラック」。といっても、原作を読んだわけではない。知っているのは、同じそれを原作にした映画。ピノキオのような大きな鼻をもった男の悲喜劇(映画ではラブストーリーになっていた)。思わず、予約のネットに手が伸びかけたのだが。。。全席自由席と知って、クリックする手が止まったまま。これまで、観てきた舞台は、どれも客席との距離が近く、演じる人の息遣いが聞こえるようで、とても興味深かった。とはいえ、まだまだ観慣れていない故、観る方のテンション調節にいささか躊躇っている感じ。さてさて、どうしたものだろか。


葉月である。大暑が過ぎて、土用の丑が過ぎて、暦の上の夏はもうあと7日である。月名にふさわしく葉書を、暑中見舞いを出さなくては。。。毎日思って日がどんどん過ぎていく。まるで、宿題が出来ない子供のようである。情けない。と、思っていたら、この春結婚した友人から一葉届いた。彼女とは、昨年暮に、分去れの道ならぬ(そんな大それたものではない)、小さな旅を同行した。いつか、書いた「駅でどんどん先に行ってしまった」彼女だが、帰国してみて驚いたのは、うん千円の海外通話を私の携帯からかけていたこと。無論無断で。金額の問題ではない。何度か貸してあげたのだが、それとは別に、履歴まで消して、である。恐らく、通話ごとの明細が届くなんて知らなかったのだろう。ともかく、愕然とした。どうして、後からでもひとこと言ってくれなかったのだろう。残念で仕方が無い。一事が万事である。大概のことは、さして腹のたたない私だが、筋の通らないごまかしだけは、いかんともし難い。人の財布から黙ってお金をとるのと同じことではないか、とその時はとても腹がたった。でも、それをはっきり言わないまま、旅の後、数回のメール交信をして、疎遠になって(して)いたのだ。で、葉書が来た。どうしたものだろう。若い二人の門出を祝福してあげたいこころは、やまやまなのだが、筋を通したい頑固な私は躊躇っている。怒る道理より、許す度量を優先させるべきなのだろうか。ずっと気にしていたことでもある。