同じ月を見ている。ちょっとかんどう、ちょっとかんのうである。一週間前、まだ半分しか満ちてなかった月が、知らぬ間にやわらかい丸みを帯びていた。家路に向かうその一本道に、曲がった途端、やさしい明るさが目に飛び込んできた。これもささやかだが、至福の時のひとつに違いない。時々遠回りして帰るのも実にいいものだ。こうして、思いがけない喜びに巡りあえる。


それにしても、暑い。クーラーなしを決め込んではいるが、暑さには滅法強いが、汗が流れるのはちっとも苦ではないが、むしろ暑いのを頑張ってるぞというのが気合いが入る感じで、とても好きな気もするが、だからちっとも文句なんてないけれど、でも、ちと暑い。まるで、夏みたいだ。と、寒いジョークで暑さをしのげないものかと考えてみる。それにしても、今夜、この国の空に舞った花火は全部でいくつだったろう。各地のそれを一度に全~部を覗ける、巨大な魚眼レンズで、空から見れたらいいのになぁ~。


ときに、真夏に声を張り上げるのは実に大変なことであろう。“閑”が一転、突然忙しくなったわが身をもって痛烈に感じる。喉の嗄れといったら半端ではない。炎天下を歩き続けるのの3倍は、からだが水を求めてしまう。「嗄」とはまさに、言いえて妙の文字のつくりである。感心だ。感心で思い出した。内田百閒という人の「恋日記」に、不図とある。最初わからなかったが、ふと感じた、ふと思ったの「ふと」だと気づいた。なるほど。ふととは、はからずもということか。省みるにとてもふとの多い私であるが、改めて日本語の深さに感動した。もちろん、その内容の深さ(味わい)にも。


“閑のなかにこそ充実がある”。生意気にも、いつ書いたのか、書きなぐりの紙片の片隅にそうある。でも確かに。何を隠そう、なんとか外向きに堪え得る言葉やうたの多くは、その“閑”の中に浮かんだものだ。意に反して、貴重な週末の“閑”な至福のひとときがちょっぴり危機である。本来ならとても喜ばしいことだが、元来オヘソが横向きなのかもしれない。自力だけで(一定の緊張感を伴なう)“閑”な時間を作り出すのは少々難しい。授業時間があるからこそ、10分の休憩時間があれほど充実している。夏休みに同じ充実感は難しい。時間は、そこにあるものでも、自然に出来るものでもなく、やりくりのなかで作り出す(至福の)“閑”にこそ、愉しみの醍醐味がある(なあんて)、えらそーなことを思っていても、わがこととなると棚の上にひょいとあげたくなる、「消夏」がとても恋しい盛夏十三夜である。