素敵な音楽がある。素敵なコラムがある。そして素敵なひとがいる。

「夏は夜」(がいい)と言った清少納言に、賛同を覚えつつも、大暑を過ぎてようやく夏らしい日差しと風を頬に感じたときのうれしさもなかなかにすてがたい。(と思う。)「酷暑なんてまっぴら」と思っていたのに、予報が一転、冷夏かもしれぬと聞いた途端、短い夏へのいとおしさが一気に増すのだから、人心とはなんてげんきんなもの。それにしても、夏がいつもこんなふうに、自然の涼風だけで過ごせたらどんなにいいでせうに。午後は木陰に長椅子を出して、本を読む(というより気がつけば夢の中だけど。。)。いつもそんなだった子供のころをふと思い出した。あの、なんともいえないワクワク感と高揚感が一度にやってくる夏休みの始まりも。


思えば、“会いたい人リスト”があった。社会人一年生のころ。胸のなかにだけだけど。それは、15才~18才のころに(その著書などで)であった心に残った人物で、いつか会えたら(いいな)という方々。(冷静に考えるとものすごく僭越というか、贅沢な願いに違いない)。筆頭は、福井謙一氏だった。確か「学問の創造」という著書の中で「広く学ぶこころ」というのがあって、東大寺の仏像の話がとても印象的だった(といってもその詳細がいまどうしても思い出せないでいるのだが。。。)。だから、高校に入って理科は、迷わず化学を選んだ(でも、どうしても得意にはなれなかったけど。。。)っけ。先日亡くなられた河合氏もそのひとり。(確か高校の夏休み)偶然つけた教育テレビが、氏の京大退官記念講義を中継していた。話の中身は覚えていないが、いまでいうオーラなるものがあったのだろうか。肩書きだけで偉そうにしているだけの人とは違うすごさを感じたのだろう。


で、ときに。いつもそうだけど、素敵なコラムに出会うと、またひとつ居心地のいい空間をもらえたようなうれしさがある。それは多分、こころがやさしくほどけたような安心感、親近感を与えてくれるからもしれない。そして多分、恐らく普段、話し言葉ではあまり“気持ち”を語らない男の人の、そのさりげない言葉の選び(方)が、あるいは行間にふともらしたため息が、聞こえるような感じがするからかもしれない。例えば、「人生論手帖」(山口瞳氏著)の中にある「東京府中競馬場」や「禿頭翁の馬券拾い」。“その人”の心象風景が少し垣間見えたようなうれしさがある。たとえかりにそこには、多少の愚痴や不満(自省)の小片が混じっていたとしても。こころのままの率直な表現が、なにか心をホッと和ませ、やわらかい空気をかもしだすから。


なかなか寝付けない夜に、書棚の奥から取り出した、司馬さんの箴言集なる「人間というもの」。(7年前、2つ目の赴任地で買ったのだっけ。)“人は、その才質や技能という/ほんのわずかな突起物にひきずられて、思わぬ世間歩きをさせられてしまう。”なぜだか、とてもその言葉がこころに沁みた。それから、“陽気になる秘訣は、あすはきっと良くなる、と思いこんで暮らすことです。” だそうです。