「女性脳の情緒は、積分関数である」のだそうだ。そして、「時間軸に、ゆったりと蓄積されていく。」と。そう、例えば、何かの理由で、それもホッとほほえましいとさえ思えるような、そして優しい気分にもなれるような、そんな理由だったりすると、尚更だけど、約束の日が先にのびたとしよう。ここだけの話だが、案外嬉しいかったりするのである。それは、小さいころの遠足や運動会の前日がもっともっと長いといいのになと感じたのと少し似ている。楽しみで仕方のない、こころ優しくなれるような、うれしい時間がも一度味わえる喜びなのだ、といったら、少し言いすぎだろうか。ともかく。待つというのは、来ると信じて待つというのは、とてもとてもただそれだけでもうれしく充実している。自分でも不思議なのだけど。
こころの深い部分で、感応(共鳴?)できた感覚や、言葉や想いが通いあえたという喜びは、ただ、それだけで深く深くこころに沁みて、そして胸を打つ。そこには、改めて言葉で、表現するのがもどかしいような温もりや、和みがある。と思う。いうなれば、“うごかない信念”を、“かはらない真実”が優しく包みこむ瞬間だろうか。切ないほどに、いとおしくて仕方ない。そして、ぼんやりしていたデッサンが、輪郭を、色を帯び、目に響く“絵”に近づいていくような確かな存在感に、胸が高鳴り、同時に、矜持、凛と襟を正す、という言葉が静かにおとなふ。そんな時間を、そんな感覚をもてるしあわせ(日常のほとんどを“気持ち”と一緒に暮らしている女性脳だからかもしれない)。
その本にはこうもあった。「男は、女が自分と一緒にいないとき、自分のことをすっかり忘れてしまうことを懸念する。自分がそうだからだ。」だが、違う。「日常のほとんどの時間を《概念の彼》と一緒にいるので、彼に触れて、彼が実存の健康な肉体の持ち主であることを確認すると、その度に軽く感動してしまう。~ 何も起こらない日常。ときどき、相手の実存に感動して強い情動があり、やがて、しみじみと安心する。」そう、ロマンスという知恵(恩恵)をもらったおんなの心は、こんなふうにいつもとても穏やかで、まるでずっと“凪”のような感じなのかもしれない。(そういえば、いつかある(恋愛?)小説家がこう言っていたっけ。おんなはたったひとつの終着駅になりたいと切に願う生き物であり、おとこはできるだけたくさんの始発電車になりたい!?生き物なのだ。と。後者はともかく、前者はかなり言い得て妙かもしれない。)