夜更けに書いた懸想文は、必ず朝読み返してから投函せよ、とは古賢人からの助言(苦言?)。たいてい、顔から火が出る思いがするか、読まずとも覚えている、ゆうべ夢中で書いたその内容に、目覚めとともに枕の上で、気恥ずかしい思いに駆られるものだ。相手にも、必ず夜届くならまだいいかもしれない。(夜だけの郵便配達なんて確かにちょっと、素敵な気もするが。平安時代の送歌返歌みたいで。。。)朝届く場合だってあるわけで。すでに最初の一行で、苦笑がこぼれる。杏仁豆腐に入っているさくらんぼだって、エスプレッソについてくるチョコレートだって、1個だけだからいいのに。朝の頭なら、冷静にわかるその道理(理性?)が、どうも夜の月には欠けているらしい。過ぎたるは~、とも言うし、何とかは災いのもととも言うではないか。わかっちゃいるけど、止められない、そんなときがたまにはあっても、いいのだろうか。そのあたり、どうも語尾に力が入らないのが、少々切ないが、どちらも、ほんとうには違いないのだ。
いつだったか、白州正子さんが、その師と仰ぐ小林秀雄氏からの教えとして、紹介していたひとことが印象的だった。なんでも、文章(本)を書くときに、ほんとうに言いたいことをそのまま言葉にしてしまうといけない。ストレートに書いてしまうと、読者には伝わらないのだ、と。それを、聞いてこう解釈した。つまり、きっと、核になる部分を目に見える形で書いてしまうと、読む人の心には残りにくいということなのだろうか、と。敢えて、よく読んで、考えると、そのことが自然に、読者ひとりひとりの言葉やイメージとして自然と、あるいやふんわりと心に浮かんでいるような、そんな書き方をすることで、かえって長く読者の心にとどまることができるのだ、と。そう言われているような気がして、とても深く感心したのを覚えている。ときに、「氷山の一角」とは、あらゆることに通じる真理だと思うが、それはさておき。そして、「知っていることの全部を書いてはいけない」というのも、(かつての職場で最初に教わったことだったが、当時はさっぱり出来なかったっけ。)、同様の響きを持っている。そう、それらはみな“深さ”を大切にしろ、と言っているように聞こえる。細く、長く、そして深く。と。そして、そして時(を重ねるの)も金なり、なのだろう。