ひとには思いがけない理由がある(のだそうだ)。(かつて、こころにとても大きな刻印を残したドラマ「男たちの旅路」と同じ作者の最近の作品にあったことばだ。)なるほど、たしかに。ただ、さらにもっと深く考えてみると、理由と言うのはみな後から考えられたもので、実際最初からそこにあったともいえるし、なかったともいえる。かつて、あるひとが、ひとは運命に左右されてその性格になったのではなく、はじめからあったその性格だからその運命に(それを知らず知らずに選んで)なったのだ、と言って(書いて)いたのがとても深く心に残った。感性というか、こころのひだ(の数)というか、こころの(叫び)声というか、無意識という名の感覚みたいなものがあるに違いない。ひとそれぞれに。出会いというものは、普段の生活をしていたら、実は数え切れないほどある。でも、出会いと呼ぶのは、たいてい、何か心に感じるものがあるものだけを指して言っているのかもしれない。ひとだけではない、恐らく、本や、ドラマや、あるいは趣味と呼ばれる活動にしても。目の前にあって、そのまま通り過ぎても何とも思わないものから、どうしてももう一度出会いたいと思うものまで。偶然という名の奇跡だろうか。でも、恐らく奇跡は、それを感じることのできるひとの前にしか現れない(起こらない)のかもしれない。とも思える。
時々、冷静に振り返ってみると、自分でも驚くようなことばを口にしていることがある。(でも実際は、聞いた方は覚えていても話した方は覚えていないというのが多いのかもしれないけれど)。例えば、「人生はどこまでいっても(上りの)坂道なのよ(10歳は若い悩み多き年頃の友人に、偉そうにも言っていたのだ。)」とか、「子供の父親は、やっぱり情緒のあるひとがいい」(今にして思えば、何であの時あんな生意気な台詞を口にしたのだろう)とか。まあ、無意識のなせる業か、偶然という名の必然か、わからないけど、なんだかわからない“流れ”みたいなものは確かにあると思う。一度しか会ったことのない人(今では顔も思い出せない)から、ある時突然メールが来て、別のある人のことをしきりに紹介してくれる。まるで、連絡せよと言わんばかりに。どこの馬の骨(ごめんなさい)とも分からない人に、何をどう言ったらいいの?と正直思った。でも、もしそのとき、その“流れ”に乗らなかったら......。その後、会ったことのない人とはとても思えないような心の交流は生まれなかった。とても不思議な感覚だった。なにか、とても居心地のいい空気が行間から滲み出ているような、そんな安心感が広がっていた。話している内容それ以上に、話しているというそのこと自体がとても嬉しいと思えるような、やわらかく心が清んでいくような空気があって、つまり、とにかく“居心地”がいい。
焦らず、のんびり、ゆっくり。時間はたっぷりあるのだ。歌のタイトルではないが、川の流れのように、自然の流れに身を任せる。心がささくれだったとき、逆境に身を置かねばならないとき、なかなか思い通りにことが運ばないとき、ときにそんなときには、案外難しいものだけど、焦っても、焦らなくても、きっと大きな流れそのものはそれほど変わらないのではないか。ふと、そう思う。(かつてのわたしのように、しきりに車線変更して急いでいたはずの車が、ふと見ると、のんびり流れに沿ってた自分の車とほとんど同じところを走っていたりするのをよく目にするように。。。∵愛車もすこし高齢で、それを労わっていると自然と運転も大人しくなってきてしまった。)自分では、(勝手に)逆デジャ・ヴュと呼んでいるのだけれど。不思議な感覚がある。いわゆる、なんとかの第六感とも少し違う。かといって、予言や予知というような大仰で興醒めなのともちと違う。きっと、ずっとそこにある。またここに来るだろう、きっと(そんな感じのもの)。目に見える根拠は何もないけれど、でも、見えないからこそ信じられるような、ある確かな感覚が。(だから、ひとには、かわりようないものもあるのだ。きっと。思いがけない理由とおなじくらい当たり前のこととして。)ある時、立ち読みで偶然手にした詩集(確か「星の王子様」の作者のではなかったかなぁ~)に、こんな(意味)のがあった。「(ほんとうの)愛とは、互いに見つめあうことではなくて、(それぞれが)同じ方向を見つめていること(なのだ)」と。なんて、素晴らしい、素敵な教えなのでせう。読んでいると、こころがじんわりぬくもっていく感じがした。