芒種の候。しばし、哲学の道(いや、正確には哲学を真剣に学んだ人がわかりやすく解釈した話)に没頭していたせいで、こんどは、しばし軽めのものを食べて、否、読んでみたくなった。(どんなに感心する筆者に出合っても、その考えはその人が考えて考え抜いて産まれた子供のようなものであり、それを鵜呑みにするのも、それを真似して納得するのも、ちょっと違うと思うから、ひとまず“寝かせて”みることにしている。そうして、いくつの“永眠”の学を重ねてきたことか。。。ん??ま、ともあれ。)何気なく、平積みの文庫の表紙を斜め読みしていたら、どこかで“見覚えのある”名前。よーく考えたら、父親と母親のそれを見事に併せた名前ではあーりませんか(苗字は母の旧姓だし。)どーでもいい、独り言のようなエッセイで、一度は棚に戻したのだが、でもやっぱり気になり手にしてしまった。子供の頃お腹を壊すと、これだけは食べるのを許されたあの風船煎餅のような軽い小節ばかりなのだが、ちょうど今の自分の年齢と重なる頃にその筆者が書いた、日々のあれこれはなんとなくの共感や反感のツボをほどよく刺激してくれもする。(でも、あの超有名な賞をお取りになられた方の筆としては、あまりに親しみ安すぎるというか、些か夢がなさすぎるという気がしないでもないが。。)


で、あろうことか、件のエッセイを読んでいたら、唐突に“引越し”の二文字が浮かんでしまった。あともう少し仕事を増やせば、念願のあの“温泉”の近くに住めるではないか、と気づいてしまったのだ。この間、引っ越したばかりだというのに。でも、古都のあの歴史ある古い中心街に一度は住んでみたいというのが夢だったのは確か。うーーん。(以前のわたしなら、思い立ったら吉日!とばかり、一も二もなく動いてただろうなぁ~。それに、今年こそは間違いなくやってきそうな酷暑を、このクーラーのない部屋で迎えるには並々ならぬ覚悟がいるのも確かで。。)秋までに、(週に一度のメール以外使っていない)携帯をやめようと、ひそかに誓ったことでもあるし。この際、無駄な経費は極力省いて、“書く”環境を本気で探してみるか。なあんて。でも、ほんとはこの部屋に決めたときに来たあの直感を今も信じているから、移動は多分、否、多分じゃなくて無期保留。(試しに、コイン投げてあの卦とやらをやったら、“虎の尾を踏む”と出た。まさに、危険いがいのなにものでもない。案外、当たっているのやもしれぬ。うーん。やっぱり悩み多き年頃!?なのだ。)


ところで。田んぼで力を出すのが男。いえの中にいると安心で安らぐのが女。と書くのに、いつしかそんな環境ががらりと変わってしまったあたりから、それぞれの苦悩が始まってしまったのやもしれぬ。宮脇檀氏の書かれた「男と女の家」。実に面白い。だれも教えてくれないことがそこかしこにちりばめられている。(最近、購入を迷ったときは、迷わず!?作者の生まれ年を見るくせがついた。老(失礼)賢者とはとてもいい言葉だ。と思う。)一行読んだら、三行ぐらい考えさせてくれる文。そんな良書に、少しでも多く出会いたいものだ。乱読もあるところまでいって落ち着くと、自然に(目が肥え?)古典回帰するのかな。何事も、愉しむ境地にいくためには、根気と努力(つまり時間とお金?)の投資は不可欠なのかもしれない。(たぶん、ゴルフも?)成る程、と思った。(純粋に)「好き」ということ以上に大切なものはない!。のだそうだ。他愛ないないドラマのその一行のセリフに、心を揺さぶられてしまった。不覚にも。それにしても、すきという漢字は、おんながこどもを(想って?)携えているとみるのは深読みだろうか。(それとも、武士の世界の所謂“おんなこども”=弱者?を併記したに過ぎないのか?)。そういえば、誰かが「愛している」は口語ではない!と断じていたけど、(確かに口にしたとたん重みが消えちゃう気がする)LOVEとLIKEの峻別(の曖昧)、(能)動詞としての感情表現の非力なわが言語では、そこら辺のことをうまく説明するのがたしかにほんとにむずかしい。もどかしいほどに。