たとえば決して、形而上的なその本の世界の思索に耽っていたわけでも、あるいは、アルプスの山を越えた向こうのくにへ車を走らせていたわけでも、はたまた、いつか切ったコブシの木の炭焼きで煤まみれになってたわけでも、さらには、老獪の域に達しつつある老愛犬の猶もほほえましい仕草に頬を緩ませていわたけでも、ないのだけれど。なんとなく。ただ、なんとなく。静かに時を過ごしてみたくなるときがある。でも、ほんとは、それどころか、時折、そして不意に、音をたててつぶれる胸のうちの小さな癇癪玉が静かに心に傷をつけてくるのと、闘っていた時間だったような気もする。もし、老いが醜いのだとするなら、それは、外見の皺の数や、肉体の衰えなどでは決してなく、心の空間が知らず知らずに狭くなってしまうことなのかもしれない。それは、目前に迫りつつある(かもしれない)、でもいつくるとも知れぬ寿命と言う名の死への恐れもそれを手伝ってしまうのだろうか。ただ、なんとなく、そう思った。母を見ていて。
神の差配か、というのは少々大げさすぎるけれど、休日のまだ明るい午後の時間に、大好きな街を歩く機会を得た。まるで、予想外の展開だったゆえ、全く場違いな服装だったことに目を瞑れば、思いがけず手にした数時間のなんと、有難く嬉しかったこと。ほんにささやかな悦びだけど。あのジョンレノンとオノヨーコが愛したテーブルのある老舗のカフェで、静かに南米産のコーヒーを飲みながら、思索へのささやかな時間をくれるその本を読む。大好きな書店のその洋書コーナーで、かねてから欲しかった小説を買い求める。お気に入りのパン屋で焼きたてのパンを買う。この3つの選択肢から、懐具合と相談し、結局とったのは最初の2つ。本と、安らぎの空間ではお腹はふくれないのに。哀しい哉、我ながら自分の優先順位を省みて、空腹抱えた電車の中で苦笑する。
思索が、少し深いところまでもぐってしまうと、それがことばとなって表面に上がってくるのに少し時間がかかるのかもしれない。なんとなく、今までと違う心のもちよう(スタンス)を見つけた気がしているのだけれど、うまく言葉にならないのだ。まだ。とはいえ、たかだか30数年しか生きてないのに、ほんの数冊読んだだけで、すべてを達観、超越できるわけない、気がしてもいるけれど。ところで。「博士の愛した数式」。もし、30代で一番こころに残った作品を挙げるとするならこれだし、これまでで唯一1度ならず2度までも映画館に足を運んだ作品でもあるし、何より、最近読んだ中でもっとも感銘、感服した小説。こんな世界の切り口を、小説と言う手法で、これほど美しく描いた作者に尊敬さえおぼえる。純粋な気持ち。これを改めて教えられた。そして、これを忘れないでいたい。いつまでも。