その曲のオリジナルのライナーノートにはこうある。『「運」というのは都合の良いものです。自然に流れる「力」の別名です。ある時は味方になり、ある時どうしようもない仇にもなってしまいます。僕は別に運命論者でもないつもりですが、そういうものって本当にあると思うことがあります。が、物ごとはすべてそうでしょうけども、楽観すれば、いくらでも楽になり苦しめばいくらでも苦しめるものの様な気がするのですね。この「母」は、決して僕個人の「母」ではなく皆が持っている「母」なのです。つまり、「支え」なのです。我々にとって最も大切なものではないでしょうか。鴎外の「雁」に登場する、この坂は今もあの池のほとりに、しんと静かに流れています。』と。生後2ヶ月で母親が逝ってしまった私の父にもきっと、そんな「母」はあったのだろうか。不満や愚痴をこぼすことの殆どなかった父を思い起こすたび、自然に涙が頬を蔦ってしまう。


娘が、別れて暮らした晩年の父の生き様を追っていろいろは人を訪ね歩くその小説を読んでいると、こんなくだりがでてきた。「同性ゆえの理解と無理解、肉親ゆえの全面的な肯定と全面的な否定。母と娘の関係は、きびしい親と子のそれを基本としながらも、姉妹になったり友だち同士になったり、また敵同士になったりする。それが順番に訪れる場合といっぺんに訪れる場合と、家庭によってさまざまだろうけれど、~、危機が定期的にやってくるのではなく、一日のうちにぜんぶ出てくるような、にぎやかでせわしない寄り添い方~、一分後には大笑いに変わったり~」。なるほど。その通り。見事な観察眼だと思った。(∵作者は男性)。余りに遠慮の無い言葉の応酬が始まるたびに、繊細な父は心を痛め、やめろと(哀願するように)怒鳴っていたっけ。でも、父がいなくなってから、そんな威勢のいい掛け合いもなくなったな気がする。互いが互いに遠慮するように。なぜだろう。


息子のいる母親と、母親のいる息子(つまり、長く生きてくれているという意味で。たとえ一緒に暮らしていなくても)は、幸せものだ。ふと、そう思った。なんだか、深い深い愛に包まれている気がするから。その人の曲にはこんな一節もでてくる。「偉大な女は偉大な男を育て/アホな女はアホな男を増やす」と。うーん、確かにそうかもしれぬ。ついでに、その前には「お前が素敵な女にならなきゃいけないその訳は/歴史を変えるのは常に女だからだ/どんな男も女に創られ女に振り回される/父さん結構身に染みてたりする~」とも。ふ~ん。そうなの?ともあれ、でも、その一方で、幾つになっても父親のことを少し誇らしげに語る息子の姿はとても素敵だと思う。我が家に養子で入り、お酒を一滴も飲まなかった父の父(つまり祖父)は、日露戦争にも出征しており、超がつくほどの美男子だったという。父がその父親のことを話してくれたことはなかった。そんなことも、ともかく聞きたいことはたくさんあったのに、やっと大人になって少し話せる歳になった途端、父は逝ってしまった。