20年くらい前、ひとつの橋のあちらとこちらに住む男女(7人)の機微を描いたドラマがあった。(当時、クラスはそのドラマの話題で持ちきりだった。まだまだ未熟で無粋だった私はいまいちついていけなかった。それをちゃんと見たのは、大学生になってからだったような。で、その登場人物の年齢に今自分がいるということが、ちょっと不思議な気もする。)ある時、そのドラマに出ていた女優さんの、キャディについたことがある。きっと、特別な話題を求められたりするのは、もし自分だったら嫌だろうなと、勝手に決め込み、至極ふつーに接してアドバイスもする。(でも、心なしか、ほかの人より親切にしてしまうのは田舎者の哀しい性かなと、こっそり嘯きながらだったけど。。。)そしたら、とても気に入ってくれたらしく、帰るときなど、頭を深々と下げて、「本当にお世話になりました」と去っていかれた。とても、印象的だった。どんな些細なことにも「ありがとう」と自然に口に出来る人は、とても素敵だと改めて思った。
子供の頃、とにかく弱虫、泣き虫で仕方なかった。歩いて(大人なら)100数十歩で行けそうな距離にある保育園に一人で行けるようになるのに2年近くかかったし、ひとりで留守番など、絶対にできなかった。小学生になるまで。言葉を覚えるのも人一倍遅く、もうすぐ保育園という年になって、近所の小さなスーパーで母を見失った私が、2音以上の連続和音を発音できず、濁点付きのその(私にとって)母を示す語を大声で泣き叫んで店内を彷徨ったのは、しばらく話題になったほどだ。そんな私を見かねた母が、ある時、2ブロックほど先にあるポストまで、ひとりで行くか、母が行ってくる間ひとりで留守番するか、のどちらかを選べと迫った。泣きそうになるくらい悩んで、結局後者を選んだ私だったが、たかだか5分もかからないその時間の長かったこと。ほとんど半べそ状態だった。だから、本当は、とっても気の弱い泣き虫なのだ、私は。今でも、そう信じている。
たとえば池波正太郎さんとか、安岡章太郎さんのエッセイなどを読んでいると、「男の格好よさとは」「男の求めるものとは」みたいなことが、そんな大上段の構えなしに、さりげなく、でも、ちゃんと先人の教えのように書かれていてとても興味深い。でも、女性にはそんなお手本があまり見つからないのはなぜだろう。短歌や俳句、小説の中の心の機微はあるけれど。そもそも、女性は、その(生き方のゆるがない)ものさしを自分の中に持っていて、社会的視点や歴史的なんとかなどを考えないで、刹那せつなを生きているからなのだろうか、とも思ってしまう。最近は、どこかのクラブに勤めていた方などが「いい男の選び方」みたいななんともごう慢なタイトルの本を書いていたりするけれど、女性から見ても全然読むところが無い(失礼)のだから、男性には失礼千万(に違いない)。女性が書いた女性のかっこよさや、改めるべき(自省的)視点などが、滅多にないのは、女性は反省しない生き物なのかもしれない、と思ってしまったり。そういえば、確かにおんなには、男同士にあるような(暗黙の)連帯感みたいなものは、ほとんどない。外見の美醜を競うことにはあくせくしても、内面の素敵を先人が後輩に言葉で残すという習慣は、かなたの昔からないのだろうか。(女性が書いた素敵な小説はいくつもあるのに。)
父親が想う娘へのおもい、息子が想う母へのそれは、娘や母の、父や息子へのそれらとは比べ物にならないらい深くて大きい。そんな風に感じてしまう。詩をみても、小説を読んでも。無償であるがゆえに、どこか切なく、どこか温かい。そんな言葉にならない純で深遠な絆を感じさせる。だからきっと、愛にもし分量があるなら、男が持ってる愛の量におんなはとても敵わない。勝手にそう思っている。(母が娘に残せるものって何なのだろう。娘が母にできることって何なのだろう。父を想うようには、母をおもえない自分自身と、時々、そんなちょっぴり哀しい謎解きを繰り返している)。