思わず読みいってしまった。心地よい電車の揺れを背中で感じながらなんども読み返した。そこには、いつのころからか、ずっと気になっていて、これからも生き方、考え方の指針を示してくれるに違いないととても楽しみで、こころ強い意見を展開してくれるその先人を見つけられたことをひそかに喜んでいたのに、数ヶ月前、社面の顔写真入り訃報を目にして思わず絶句してしまった、女性エッセイストのこころの眼が紹介されていた。家に帰ったら、さっそく、その人の著した本をもう一度読み返してみようと思った。(実は、帰宅を待てずに飛込んだターミナル駅の、開店したばかりの書店で、まだ持っていない著作を購入してしまった。)もっているのは、「勝っても負けても」、「41歳からの哲学」、「人生のほんとう」などなど。そう、はじめて哲学というものに、興味を拓かせてくれた人でもあった。きっと、「50歳の~」「60歳の~」と、歳を重ねて行くことの素敵を教えてくれるに違いないと、信じて疑わなかったのに。考えることの愉しさを、自分の頭で意見を捻りだ
すことのたいせつを、もっと胸を張ってやっていいのだと勇気をもらっているようでもあった。「無 頼」。 女性を表すのに、ふさわしいかどうかわからないけど、まさにそんな言葉が似合う、孤高の思索者、智恵の創作家のように映った。やっぱり美人薄命なのだろうか。
と、夢中で言葉を打っていたら、あわや乗り越しそうになり、慌てて降りたら、大好きな人に買ってもらった傘を電車に置いてきてしまった。なんてお馬鹿な。せつな、ものすごく消沈した。いつも、肝心なときに、何か大切なものが抜けている私なのである。
さて、ゴルフは、ゴルフというものは、あるところまで上達して、心的にも落ち着きを持って臨めるようになると、つまりは、自分の欲望と技術の絶対量のバランスがとれるようになると、必ず量より質を求めるようになるものらしい。それが証拠に、やたらどんな機会でも、誰と一緒でも気にせずとにかくゴルフに行きたいというような、姿勢は自然となくなってくる。どこでまわるか、誰とまわるかがとても大切になってくる。そんなゴルフなら、どんなに遠くても出かけて行きたいと思うものである。そして、スコアなんてどうでもよくなる。つまり、どんな手段を使ってもスコアを縮めることにあくせくすることよりも、どんなスタイルで一球一球をイメージして、どんな物語をつむごうかと智恵をめぐらせることが楽しくてしたかたがなってくる。さらに同伴者との、ウィットに富んだ会話が加われば、嬉しくないはずがない。確かに、痩せ我慢なのかもしれないが、最初、もしそのまま勤めを続けていたとしたら。言ってみれば、数千万(の収入)とひきかえに手にした時間と空間で
得た(と言えなくもない)ゴルフの腕と余裕を高いとみるか安いとみるかは、さておいて、もしそのまま(挑戦していなかったら)だったとしたら、上達という楽しみを先取りしてしまったのはもったいないかなと思う半面、恐らく、専念しなければ決して容易にはひとりでたどりつけなかった、心がまえや境地だと思えば、やっぱりこれはしあわせな境遇なのだと、納得しているわたしは、いささかおめでたいのだろうか?
それにしても、日本人は、いや日本人の多くは、なんて真面目で、勤勉なんだろう。貴重な一日という時間と決して安くはないお金を使って、ひたすらまっすぐ自分のボールに向かって歩き、ただ黙々と素振りをし、やたらに緊張してボールを打ち、やれ風が悪い、天気が悪い、芝のせいだ、コースのせいだ、はてはクラブの、あるいはボールのせい、などと例えどんな結果でも、愚痴をこぼし、素敵な景色も、爽やかな風も、束の間満喫できるこころの解放感もちゃんと味わうこともなく、過ごすなんて、なんてもったいない。ゴルフ以外の話題を提供し、真の会話を楽しめるひとのなんと少ないことか。遊びとは、魅力とは、内面から滲みでてくるものだと思うのに。それだけに、“くだらない”話を、それとなくさりげなくできるひとがいっそう素敵に見えて仕方がないのだけれど。(それにしても、ティーを前と後ろに飛ばし分けるコツがまだ見つからない。そのうち、もっと難しいクラブを探して、ゴルフをさらに面白くしようかなぁ~などと思っているおばさんなのである。)