和歌をながめていると、そのそこかしこに散りばめられた掛詞の多さと、オブラートで包んだような、でも芯の固いおもいがこめられた繊細さや、優美さに感心させられることしきりである。何気なく、流れるように語られた一言の中にも、或いは、事実への自戒を込めた指摘であったり、ほんの少しのがっかりであったりをさりげなく、滑り込ませているように感じられることもある。それにしても、掛詞のような、はにかみやはたまた洒落気のある、情緒豊かな表現方法は、ひとつの文字がひとつの音しかもたない日本語(かな文字)特有のものではないのか、とふと思いいたり、さらに感心。まるで、目の前にその情景が昨日みた風景のように浮かび上がり、そして作者の思いも忍ばせている。たった三十一文字の中に。見事としか言いようが無い。~夏来にけらし~天の香具山のような風が吹いていたと思ったら、いきなり雷轟く夕立が訪れ、その後には見事な夕日が現れた。自然の色に勝るものはない。一番好きな色をあげろと言われたら、真っ赤に染まる夕日の色だと答えるだろうなぁ~と、それを見たときそう思った。


目をこらし、耳をすませて、文をかく。いや、その前に、よむ、かな。ともかく。かくことの、むずかしさよ、いとおしさよ、ゆうひのあかにこころをてらし。たとえば、夕月夜潮満ち来らし~、の歌も、なごの海の霞のまより眺むれば~の歌も、わが宿の池の藤波咲きにけり~も、なんだかとても胸に響く感じがして、なかなか本を閉じられなくなってしまった。それにしても、千年の時を経ても、変わらず語りかけられるもののすごさにやっぱり驚き、感心するばかり。文字として、いや、文として、何年先までも残せるものをしたためられる場所のあることを、とにかく、ただひたすら、とてもすごいことだと羨望のまなざしで見つめている。言葉は、永遠になくならないだろう。ただ、大切なのは、そして大変なのは、続けていくと言うことなんだとしみじみ実感もしている。深い言葉、こんな言い方があるかどうかわからないけれど、そんな言葉をたゆまず探し、ひっそりとでも綴っていけたらいいな、と思っている。変わりない日常のなかにこそ、大切にしないといけないものがたくさんあるのだと、教えられているような気がするから。