ツバメを見掛けた。半地下になっている会社の倉庫らしき、入り口からでてきたところで出くわした。すごく懐かしい感じがした。何年か前、ちょうど今ごろの季節だった。確か、オーガスタ(現地ではアガスタと発音される)の12番をまねて作ったとされる、うち下ろしの池越えのショートホールで、ティーショトを終え、バッグを担いで、池のほとりをグリーン目指して歩いているときだった。ひとりだった。(ちなみにそのホールには橋はない)ふと、気配を感じて振り返ると、どこからか、一羽の燕がやってきて、まるで私に何かを話かけるように、歩いている私回りをまわりながら飛びだした。こちらは、何かの挨拶かしら、何か尋ねられでもしているのかしらと、思いめぐらせるのがやっとでただ呆然。そのうち、戦略性あふれるコースの攻略をどうするかで頭がいっぱいになり、しばらく忘れていた。数日たって、ヤメ検でマスター室で働いている先輩にその話をすると、「なんで、その日に宝くじ買いにいかへんかったん?」。えっ、神のお告げ?そうかぁ~今ごろ億万長者だっ
たのかぁ。そんでもって、今ごろモナコあたりの豪邸でエスプレッソ片手にカーレース観戦できちゃってたのかぁ~。そこまで、逞しい想像を披露すると、「アホちゃうか」とつれなく鼻で笑われたけど。
ちなみに、この頃は、ホントに当たると困るから、と、ちょっぴり哀しい痩せ我慢を胸にひめ!?、買わないことにしている。それにしても、あの燕は、ほんとにいったい何のメッセージだったのだろう。今でも、不思議に思うことのひとつだ。(後日譚でも、もしあればまるで昔話のひとつにもなりそうだ)
ちょうど今ごろ、田植えの準備が進んで、あたり一帯の水田に水が張られると、それまでいったいどこにそれほどいたの?と思いたくなるほどの、カエルの大合唱が始まる。そして、同じころ我が家の納屋には、決まってツバメのつがいがやって来ていた。せっせと藁などを運び、古い巣を修繕すると、やがて卵を温めるメスにオスがせっせとご飯を運ぶ。ヒナが孵ると、今度は二羽の子育て。警戒心の強いツバメは、人が近くにいるだけで引き返してしまう。ご飯をもらうときに一斉に顔を出すヒナたちをひとめ見たくてこっそり納屋に隠れては、「来年から怖がって来なくなったらどうするんだ」と、心配症の父に叱られたっけ。とりわけ、鳥には優しい父のため、ツバメの子育てが始まると、庭での野球は全面禁止にさえなった。そんなわけで、ストレスがまったくなかったと言えば嘘になるけど、夏の訪れを間近に感じさせるツバメの来訪は、我が家の大切な年中行事のようになっていた。一度目の子ツバメたちが無事巣立ち、親たちが二度目の巣作りの準備を始めるころ、裏の水田では
蛍が舞い始める。そんな風景も、農地整理と農薬頒布が当たり前になって、次第に虫もいなくなったからだろうか、なかなか見られなくなってしまった。
まだ空の一部に明るさの残る早宵のころ、正面に見える宵の明星に向かって、勢いよく飛び出す白球をみながら、ふとそんなことを思っていた。要は、閑なのだが。
そういえば、ツバメを意味する英語には、確か飲み込むという意もあったっけ。ツバメは、どんな事態ものみこんで受け入れる広い度量も備えているのだろうか。みならいたいものだ。閑古鳥とどうやってつきあおうか、腐心している身の上では、想像力だけがやたらひとり歩きして仕方がない。ついでに、英語で時間をつぶす意の動詞はkillだっけ。ちょっと、物騒な気がする。つまりは、時間は、無為に自然に流れるものでなく、能動的になんとかするものなのだろう。言葉は、そんなところにも(西洋と)文化風土の違いを示唆してくれる。やっぱり、私は和が好きだ。
たのかぁ。そんでもって、今ごろモナコあたりの豪邸でエスプレッソ片手にカーレース観戦できちゃってたのかぁ~。そこまで、逞しい想像を披露すると、「アホちゃうか」とつれなく鼻で笑われたけど。
ちなみに、この頃は、ホントに当たると困るから、と、ちょっぴり哀しい痩せ我慢を胸にひめ!?、買わないことにしている。それにしても、あの燕は、ほんとにいったい何のメッセージだったのだろう。今でも、不思議に思うことのひとつだ。(後日譚でも、もしあればまるで昔話のひとつにもなりそうだ)
ちょうど今ごろ、田植えの準備が進んで、あたり一帯の水田に水が張られると、それまでいったいどこにそれほどいたの?と思いたくなるほどの、カエルの大合唱が始まる。そして、同じころ我が家の納屋には、決まってツバメのつがいがやって来ていた。せっせと藁などを運び、古い巣を修繕すると、やがて卵を温めるメスにオスがせっせとご飯を運ぶ。ヒナが孵ると、今度は二羽の子育て。警戒心の強いツバメは、人が近くにいるだけで引き返してしまう。ご飯をもらうときに一斉に顔を出すヒナたちをひとめ見たくてこっそり納屋に隠れては、「来年から怖がって来なくなったらどうするんだ」と、心配症の父に叱られたっけ。とりわけ、鳥には優しい父のため、ツバメの子育てが始まると、庭での野球は全面禁止にさえなった。そんなわけで、ストレスがまったくなかったと言えば嘘になるけど、夏の訪れを間近に感じさせるツバメの来訪は、我が家の大切な年中行事のようになっていた。一度目の子ツバメたちが無事巣立ち、親たちが二度目の巣作りの準備を始めるころ、裏の水田では
蛍が舞い始める。そんな風景も、農地整理と農薬頒布が当たり前になって、次第に虫もいなくなったからだろうか、なかなか見られなくなってしまった。
まだ空の一部に明るさの残る早宵のころ、正面に見える宵の明星に向かって、勢いよく飛び出す白球をみながら、ふとそんなことを思っていた。要は、閑なのだが。
そういえば、ツバメを意味する英語には、確か飲み込むという意もあったっけ。ツバメは、どんな事態ものみこんで受け入れる広い度量も備えているのだろうか。みならいたいものだ。閑古鳥とどうやってつきあおうか、腐心している身の上では、想像力だけがやたらひとり歩きして仕方がない。ついでに、英語で時間をつぶす意の動詞はkillだっけ。ちょっと、物騒な気がする。つまりは、時間は、無為に自然に流れるものでなく、能動的になんとかするものなのだろう。言葉は、そんなところにも(西洋と)文化風土の違いを示唆してくれる。やっぱり、私は和が好きだ。