たとえば「Essays in Idleness」。たとえば「転石苔のむすまで」。たとえば「枕小石(makuranokoishi)」。たとえば「MOKUJI(黙字)のように」。などなど。考えた。この組み合わせをいったいだれが予測しえたであろうか。ともかく。でも。ほんとは、リニューアルするつもりだった。おしゃべりキッチンみたいに。無論、アドレスも変えて。完全改訂版。携帯も、メールアドレスも、みーんな一気に一新してしまおう。夢に向かう再出発として。仕切りなおしに。新しいステージへの助走になりますようにと祈りをこめて。なあんて。そしたら、目に飛び込んできた。「才能とは、努力を継続する力のことである」と。眠りすぎて、すっかり時差ぼけ状態となってた日の深夜。ある天才棋士の心模様を追った番組で。ハッとした。来年30年目を迎えるもうひとつの日記にしても、どのページを開いても、書いたのは私であるのに違いない。(近況報告代わりにお送りしているいろいろな方々への変更通知、携帯から投稿できるページの設定、などなど思い浮かべたら、億劫のむしが鳴いてしまった!?という情けない心の葛藤もあったりしたのだが。。。)
いきなり、12075を目指すというのは、余りに気の遠くなる話なので。まずは、714、756、いや868を目指そうか。500回にしてもあと240回だ。次のオリンピックまで2日に1回のペースでやっと辿りつくかといったとこ。でも、初めて書いたとき、これほど続くとは自分自身が一番思っていなかった。塵もつもれば~だ。ともあれ。気長にやってみよう。(ときに。逆境のとき、あるいはとても大切なとき、鍵となることばは、自分の名前の文字に隠されているのかもしれない。ときに音に、ときに意味に。)さきの、番組には、他にも心に届く言葉が幾つも出てきて、なかなか寝かせてくれなかった。「(プロとは、)変化を恐れず、進化する」ことである。「負けから(負けてこそ)得られるものがある」「玲瓏」「ぶれない心」「大局観」などなど。とくに、後のふたつが印象に残った。一晩たっても、メモもとらなかったのにしっかり覚えていたのをみても、かなり浸透力のある番組だったのだろう。思わず、最近読んだ小説に出てきた、「命の芯」という言葉がふと浮かんだのだった。
冬に、雷が鳴る地方と言うのは、地球全体でも幾つかの限られた所にしかない。北極圏に近いアラスカと、スカンジナビア半島の一部と、そして私の故郷のある地方。冬の夜に、刹那、外が光って、あのおどろおどろしい轟がやってくるのは、日常茶飯事。遠くの稲妻を見ながら、雷鳴を聞きながら、傘さして!登校するのも当たり前。つまりは、慣れている。だから、ずっと雷は冬にやってくるものと思っていたら、どうも違った。自分がまれな境遇にいると、普通の感覚が少し遠くなるものであるらしい。(恐らく、なにごとも。)いままさに、“らんまん”と咲いている桜たちは、雷に打たれ、はたまた雪に降られることになるなんて思っただろうか。然るべき厳しい冬を忍んでいない桜は、散り際が綺麗になれないのだろうか。それとも、天真爛漫に育ったおかげで、少々の悪天候にもめげない(散ってしまわない)粘り強さを備えているのだろうか。苦労らしい苦労を知らない私には、その辺の繊細な機微を解する修行がまだ足りないのかもしれない。