今年もやってきた。いつか、ドラマの舞台にもなった坂を上りながら、車窓から見えた満開の桜が今もとても印象に残っている。などと、思い出にひたっていたら、大地が揺れた。亥年は震の年なのか?奇しくも父の命日に。「いつ、何があってもいいように何事も余裕を持って」の父の口ぐせを思い出したからというわけでもないのだが、“なんとなく”あえて、休みのその日より2週間近く早めて済ませた法要の、偶然なるか必然なるか、ふとそんなことを思わないでもなく、文字通り“忘れた頃にやってくる”自然の力に、改めて畏怖するやら驚異を覚えるやら。やはり、天災は、平穏の中に忘れかけた何かを教える契機になるのやもしれない。
で、「食べる」ことの有り難さを実感している今日この頃なのである。作って食べるの楽しさと有り難さ。「美味しい」時間というのはなにものにも替え難い貴重な時間なのである、と。さらに言うと、何を食べるか、同様誰と食べるかも大きな要素に違いない。旧式の電気釜だとご飯があまり美味しくない。そのせいで、ずっと麺とパンが主食だったのだが、年末の旅で、こっちで買えば給料の2~3日分!?はくだらない名門ブランドの鍋を、特別価格とかいう驚くほどの安価で手に入れた。それを見ていたら、これでお米が炊けるのでは?とひらめいた。無論、水加減、火加減すべて勘なのだが。。鍋の中の音に耳をすまし、確か、中ぱっぱ!?赤ん坊が泣いても蓋をとってはいけないのだったけ、と隙間から吹き出てくるねっとり湿った熱い蒸気と格闘することしばし。わずか2合のお米が、驚くほどうまく炊けたときの喜びは簡単に言葉にはできない。オムレツしかり、スープしかり、なるほど、シンプルな料理(こと)ほど奥が深いのかもしれぬ、とひとり納得。あっさりしたものが食べたくなった。今日は、湯豆腐にしよう。