男の人にはきちんと言葉を重ねないと伝わらないが、女にはいくら言葉を尽くしても通じない、ことがある。男性と女性の脳の構造の違いを紹介するテレビ番組をなんとはなしに見ていて、ふとそう思った。インプット、アウトプットの仕方が自ずと多少違うのは、仕方がないのかもしれない。そういえば、「思考の整理学」や「日本語の論理」などの名著で知られるある大学教授の著書を、書棚の奥の方から引っ張り出して読んでいると、「耳学問」という聞きなれない言葉がでてきた。およそ、少なくとも今の日本語は目で知識を詰め込むための手段としてしか言葉を使っておらず、文字にはその意味を託すことしかしていない、としたうえで、古来の和歌に代表されるように日本語の音の持つ響きや美しさなど、耳で学ぶことをおろそかにしすぎている、といったようなこと。古典芸能にせよ、舞台にせよ、音の持つ力を感受することを忘れてしまっているのではないか。そう解釈した。だから、どうしろなどと、そんな偉そうなことはとても言えないが、読んでいて面白い、居心地がいいというのは耳の中で聞いているそんな音のつながりの妙があるのではないか、そう思えて納得した。もっとも、ひょっとすると女の場合、さらに言葉以外の何か(感覚)もあわせて読んでいるのかもしれないけれど。。。


ところで。至極当たり前の、所謂健全な嗜好の持ち主(つまりは、男性なら女性が、女性なら男性が好きということ)にとって、そうではない人たちからの接近を受けることほど、この上なく嫌なことはない。そういう、特殊な人たちにとってのもてるタイプと言うものがおよそどういうものであるかは知る由もない(そして知りたくもない)が、その不快感のもたらすストレスは少なくない。もちろん、具体的な被害があるというのではない(あっては大変なことだ)。およそ、言葉で傷つく男性に対し、空気で傷つく女性にとっては、そういう空気を少しでも受けたというだけで心中穏やかではない。その都度、言葉で説明し、わざわざ陳謝を求めることのできないことだけに厄介なのだ。そういえば、研修生時代、「ん?やばい?」と直感するや否や、噂好きでなんでも仕切りたがりの古株の先輩にそれとなく、「男の人にしか、興味がないものだから」と吹き込むことでうまく事なきを得たのだけれど。それにしても嘆かわしい、ことだった。まあ、愚痴はこの辺で。やたら、保険のCMのが目に付くこの季節、保険というものがなかった時代、人はそれほど不幸だっただろうか(いや、むしろもっとずっと~)、と思えて仕方がない。およそ、無農薬とか、不添加などの言葉さえもなかった時代、季節には季節の野菜を食べ、病がくれば天命となったその時代の人々の心のほうがずっと豊かだったのではなかろうか。そんな西行や、兼好を羨むことをいまどき言っても始まらないが。。。そんなことを、思っていたからだろうか、なんだか分からないが、日本版サウンドオブミュージックのようなストーリーの夢を見た。