本来、春はこうして迎えるものなのだろうか。寒冷前線と温暖前線が交互にやってきて、ほんものの春に近づいていく。心の天気図とも似ている。ささいな言葉のあやに傷ついたり、期待を込めたり。過不足のない想いを言葉に載せることのなんと難しいことか。寒冷~と温暖~が変わるがわるやってくるのはまさに春先の天気図そのもの。謙虚が過ぎても、機は熟しすぎて花は咲かずに散ってしまうのではないかと危惧が訪れ、でも、やっぱり我儘が過ぎては、せっかくの思い遣りを台無しにして、春が逃げてしまうのではと畏怖がやってくる。気がつけば、まっているのと、じかんがあるのの、いいてが逆転している気がしないでもなく、不意に春の嵐がこころの中を吹き抜ける。
こんな風に期待と不安が、不意に繰り返し訪れるのも、春なのだろうか。冬に支度というのはあるけれど、どうして春には準備という言葉がないのだろう。むしろ、待ちに待った春にこそ大切だと思うのに。もう準備は出来ている。もうすぐ春だ。次の桜が待遠しい。
はるよこいおもいのたけとさくらのきともにさけよとねがふよふけよ