月夜の春の宵。心なしか風もやさしく、どこかぼんやりしていて、月の光に照らされた白梅の花。足元からはほんのり沈丁花の香が漂ってくる。そんなどこか懐かしくて、いとおしい、そして「あと少し。あともう少し(この空気に浸っていたい)」と、思えるようなエッセイを書けたらいいな。と、いつも思っているのだけれど。団扇がなくていけない!?。。。どうにも。
例えば。どんなお客がキャディに嫌われるかと言うと、決して下手だからということではなく、自分がどれくらい下手か、あるいは上手か、が全くわかっていないお客なのだ。つまり、周りが全く見えていない。他で例えると、初心者ドライバーがどれほど危険か、本人はそれほど分かっていないのと同様に。。。それが、単に冷静さを欠いているだけが原因なら、助けも有効で、そのうち自分でも気づくでしょう。問題なのは、謙虚さ(がない)の場合。これはなかなか手に負えない(無論、自戒も含めだけど)。ドライバーと同様に。若葉マークの車が一段と増えるこの季節。混んだ道を走りながら、ふとそんなことが頭に浮かんだり。。。で、ふと見ると「だましや」という店があるではないか。「あ?ん?」と思ってよくみると、「だるまや」の間違い。どうも、春は目も霞むらしい!?。
いつだったか、ずーと以前。小沢栄太郎さんだったか、島田正吾さんだったかが出ているテレビドラマで、母親が、「この俳優さんは“しんこくげき”出身なのよ」と言っていた。まあ、劇団か何かだと、見当はついたが、それは“深刻劇”と書くのだと信じて疑わなかった自分が、なんともおそろしい。とっても由緒正しき「新国劇」なのだ、と、池波正太郎さんのエッセイで知った。それも、ほんの最近。ひょっとすると、いまもって、気づいていないけれど、とんだ勘違いをしたままのものもまだまだあるやもしれぬ。“アンプレヤブル”は、決して打てるところから2クラブ以内ではなく、(打てる打てないに拘らず)ボールのあったところから2クラブ以内、(無論、別の選択肢はあるけれど)なのと、(きちんと知ってるゴルファーはあまりない)同じように。。。
たった今、読み終わったばかりなのに、また最初から読みたくなる小説というのに出会った。短編ではない。しっかり300ページ以上のボリュームはある。映画なら、時々そういうのに出会えるけれど。小説ではなかなかないのではないか。それは、多分、ストーリーよりもその行間や、思考する息遣いみたいなものから伝わる何かに、ちょうど今の心の嗜好が近かったからかもしれぬ。訳本だと、その辺りの、空気の感じがどうしても平たく圧縮されてどこか無機質な感じを受けてしまうのは、まだ、こちらの想像力が乏しいからだろうか。たとえば、海外映画を吹き替えで観ると、どこか遠い感じがするみたいに。。。と、些細なことにあれこれ思い巡らせられるのも、こころなしか、ふんわりあたたかくなった春宵の空気のせいだろうか。