きみのまたるるここちしていでしはまべのゆふづきよかな」。宵というには、まだ少し早い時間。でも、夕暮れと言うには少し遅い時間。光と影が刻々と色を変えて、西の空に作り出すあのなんともいいようのない、色の層をはて、なんと表現すれば伝わるだろうか。夜を準備する濃紺から、まだしっかりとある残光の作る灯の色までのグラデーションを。そして、その光が、ささやかな摩天楼のシルエットを、さらには美しい山の輪郭を見事に描いているとしたら。自然が作る絵にまさる名画はないのかもしれぬ、とさえ思えてくる。いつか読んだ小説が、モン・サン・ミシェルを臨む崖上からの絶景(海と波と光と砂の織り成す色の見事な調和)を、描いていたけど、きっとこんな風に、感動と感嘆を呼ぶ景色だったに違いない。ハバナの丘の上から見た夕暮れの景色も、バッテリーパークを出る船の上から臨む摩天楼のそれも、はたまたプラハを流れる川の上からのそれも、美しい以上のものがあったけど。きっと、これもそれらに負けるとも劣らない。と、そんなこんなを思いながら春の早宵が作る景色を眺めていたら、冒頭の句がふと浮かんだ。ほんものは、確か、はまべでなくてはなのだったっけ。
ふきのとうに、ミョウガに山椒に独活。梅と杏と青紫蘇と.....が、自宅の庭で採れちゃう田舎で育った。だから、季節の匂いや風の香りに少々敏感なのかもしれない。なんでも、金木犀は高く香り、沈丁花は低く匂う、のだそうだ。そして、女は必ずそのどちらかに似ている、とあった。ふーーん。そこまで、官能的に自然の匂いを識別したことはなかったけれど。でも、確かに、都会の小さな敷地のくぐり戸付近から匂う沈丁花のそれと、田んぼや野山が広がる里でのそれとでは、少し違った気もする。それになにより、田舎の春には香の源が多すぎて、かえって鈍感になるのかもしれぬ。露地野菜の香を楽しんでみたい。できれは、木の温もりのある空間で。あまりに、暖かすぎる立春のせいか、唐突にそんなことを思ってしまった。でも、やっぱり、冬は冬らしく寒さに耐えてこそ、次に来る春が美しくていとおしい。春を急いではいけない。そう、思うのだが、でもでもやっぱり暖かい冬は確かに嬉しい。