キャディとキャッチャーは似ている。かもしれない。かつて、ふと浮かんだことがある。(あるいはむしろQBだろうか?)無論、キャディと言っても、プロツアーのようなマンツーマンではなく、いわゆるフツーのキャディさんのイメージで。例えば。4人が、順にセカンドショットを打っていく。4人が打ち終えた瞬間にもう、軌道を走るカートは動き出している。カートは止めない。一斉にグリーンに向かって歩き出す4人の誰の足も留めることなく、クラブの交換を終えて、次のラインの指示なども予め的確に伝える。こういう時が、キャディ冥利に尽きる、のかもしれない。(ちょっと大げさだけど)。ともかく、プレーヤーの呼吸を乱すことなく、流れを作る。これができたとき、キャディはひそかに嬉しい。もちろん、そのためには、キャディはカートよりも、他の人よりも早く動かねばならず、時にはダッシュも必要になるのだけれど。ある時、スタートホールで、(敢えて何も言わずに歩いている風に見える)お客さんが次に使いたいと思っている、ドンピシャのクラブをさっと(こちらも)黙って差し出したとき、偉く感心されたことがあるけれど。(選ぶ根拠とコツは実はある。ヒントはクラブに。)そんな時は、決まってこう言う。「すごいね」に対して、「(いえいえ、)ほんとは、自分のためなんです」と。その、文字通りの意味と、ほんとはそれとは違う照れ隠しがないまぜになっているのがなかなか伝わりにくいのだけれど。。


ところで。話かわって。例えば。一緒に旅をした友が。とある国のターミナル駅で。まだ明けきらぬ早朝に。到着列車が遅れて。大きな荷物抱えてホームを移動せねばならぬ時。はるかに、少なくて軽い自分の荷物だけを持って、わき目も振らず走って行く姿を目にしたとき。そこに、自分だけでも乗り遅れまいと、いわんばかりの(至極利己的だが、ある意味まっとうでもある)こころが見えたとしたら。そしてもし、そのときの、悲しみとも、情けなさとも、落胆とも少し違う、でもかなり消化不良を伴うある種の感情があとあとまで尾を引いたとしたら。どう、折り合いをつけたものだろうか。無論、例えばの話だけれど。まあ、何事もなかったかのように、振舞うのが“大人の”対応なのでしょうか。そういえば、ある時、とある秘境の宿に通じる急な坂道で、究極の隘路での切り返しに悪戦苦闘していたとき、(確かに、ひとつ間違えると崖に落ちる危険もあるにはあった)隣に乗っていた母親が「私、降りる!」と叫んだときも、似たような感情が沸き起こったのだったっけ。だから、たぶん、きっと、これは(つい目の前のことしか見えなくなると、本能の命ずるままに動いてしまう)女性には、しごくフツーの行動なのかもしれない(と納得しようと努めてる)。してみると、実際のところ、女性の方がずっと理性(も優しさも)は少ないのかもしれない。でもせめて、自分はそうなりたくないと願っているのだけれど。