ひらめきだけでいきていくのは、確かにむずかしい。で、大変。時に、たくさんの、それもいちどきに、の苦労をしてしまったりもする。これをわがままだと一蹴されるのはちと、哀しい。苦労があるから幸せもあるのよ、なんて、思っていたい傷心ものだからだ。自分を含め、家族などたいせつな人のためにする苦労は、すんでみればちっともくろうなんかじゃないし、むしろ、望んでそうしたい苦労だってあるはず。そう、ゴルフもそう思って見てみたら、ずっと楽しくなるかもね。ピンチのときでも。うん、きっとそうに違いない。


「私の老年前夜」という本と戯れている。いつか書いた、街角で偶然見つけた“とっておき”のやつなのだが、これが一月半たってもまだ半分。というか、早く読み終えたくなくて、途中から何度も同じところを読んでいる、気がする。あの、大好きなドラマや映画が佳境を迎えると、もっと観ていたいと思う、それに似ている。つまるところ、おしまいの先送り(無論、何度読んだっていいのだが。。)。別れを惜しんでいる、ともいえなくもない。年甲斐もなく、と言われそうだが、様々なおもいで年輪を刻み、そしてこれからも生きていこうとしている人(たち)の、感じること、思っていることが、とても興味深くて面白い。そして、学べる。尊敬もする。少しでもたくさんの話を聞いてみたいと願う。しごくふつうの感情だと思うのだが。。


現に「老い」というものに直面している。親のだが。同じこと。どうして親がひとりになると、まわりは口を揃えて「そばにいろ」というのか。(なぜだか、忠告をくれる人たちはきまって同じ問題に直面していて、でも本人はそばにいない人だったりする、のは気のせいか?)まるで決まり文句であるかのように。一緒にいるということと、思いやるということは必ずしも同義にはならない。むしろ逆になるケースだってあるのに。


そして、実は、これは広く言えることだが、女性ふたりというものほど、難しいものはない。公私をしっかり分ける、担当分野を完全にわける、など、テリトリーをしっかり決めないと、長続きするケースは実に少ない。これは事実。(職場でもよく当たっているはず。)。3点あれば、面が作れる(安定)が、2点というのは線しかひけず、しかも双方に弾力性(余裕)がないと糸は簡単に切れてしまう!、ということ、かもしれない。また、女性の友情が、環境にとても左右されやすく、男性のそれの深さとは比べ物にならないことも見ても分かってもらえるのではないか。女性は一度に広く愛することはたやすい(∵たとえば母親)けれど、深く愛せるのは一度にひとつしか無理な生き物なのかもしれない、とふとそんなことを感じてしまった。無論、これも件の問題への屁理屈の一環だけど。。^^;。うまがあう、というのは、恐らく、なにものにもかえがたい貴重なものだと、改めてつくづく思う。心の健康をだいじにしませう。あーしたてんきになあれ。^^*/