なぜだか惹かれることばのひとつに“Gift”がある。確か、「天賦の才」という意味もあったけ。件の若い!友人が、2ヶ月遅れの~と言ってとっておきの「お茶」を贈ってくれたのも想いの外で、とても嬉しかったけど、さらに驚きの温かい贈り物が届いた。心に沁みた。やはりいいことばだと改めて感心した。そんな嬉しいいちにちでした。とも遠方より来るあり~ではじまる(?)漢詩は、李白だったか、杜甫だったか。。とものありがたさに、たいせつさにつくづく感じ入ってしまった、そんな一日の終わりがとてもいとおしい秋の夕暮れでした。
はてさて、父がいたら何と言ってくれるのだろうか?この期に及んで人生の選択を楽しむなんぞは贅沢すぎる!と一喝されるのだろうか?幼いころ、暴力(シーン)のあるテレビは決して見てはいけないと、(それだけは)とても恐い父親だった(現にうちでは民放が1局しか映らなくされていたし)。野球をしてもサッカーをしても何も言わなかった父が、テニスとバレーボールだけは絶対に駄目だと激昂した時、ただ意味が分からず、どんなに涙を流して懇願しても許してもらえなかったっけ。今にして思えば、それは腕の長さや指の形が変形することへの父親なりの娘への精一杯の想いではなかったか。どんなに勉強が手につかないときも、自宅ではかどらない受験勉強に苦しんでいるときも、ただの一度も「勉強しろ」とは言ったことのなかった父が、さいごのさいごに何気なく私に言った言葉が「べんきょうせえよ」だった。その時は、聞きなれない響きにかすかな違和感を覚えながらも、なんとも思わずただ「うん」と言っただけだったけど、時間がたてばたつほど、これほど意味のある「ことば」になろうとは。。。
ずっと、人生という囲いの中に遊びや仕事があるのではなく、あそびというおおきな入れ物のなかに、人生も仕事も趣味もそのたもろもろが混在していてもいいのではないかと、ひとりひそかに生意気なイメージを描いていたけれど、温故知新、そこにこたえはあるのだろうか。ふるいものだけが正解でもなく、かといって無視できるほど軽くはない。やはり何事も覚悟するのも決心するのも時間をかけて悩まないといけないということなのだろうか。一度は、家をはなれ、苗字まですてた父が、奇しくも家を継ぐかたちになったとき何を思ったのだろう?私に何を望んでいるのだろうか?女の子はやはり、仕事などなんでもいい、でもしっかりべんきょうはして、どこであれ、ちゃんと母親になって家族を愛することが一番なのだ、と思っている(くれる)だろうか。(ちなみに父は生後一月で逝った母の顔さえ知らないのだが)。こんなことを考えはじめると、秋の夜長はとてつもなくながくなっていけません--;。なぜだかふと、「お茶の心得」というものを知りたい、学びたいと強くおもう夜なのでした。