東京に来て、ひそかに決めている目標があります。といっても、たいしたことではないけれど。一年以内に!都心部の通りの名前と凡その流れを覚えること。なーんだ、と思われそうなことですが。そして、別にタクシーの運転手を目指しているわけでもないけれど。。田舎もんのささやかな意気込みとでもいったところでしょうか^^;。でも、東京に来てハンドルを握って最初に驚いたのは、通りはすべて名前で呼ばれていて、あのブルーの道路標示も、田舎では県道以上には必ずある○号線なんて表記が全くない!、ということ、でした。あっという間に半年。幸い、日曜深夜の都心ドライブ(!?)と、日々の地道な!?徘徊(道草)のお陰で、かなりの部分で点と線がつながってきたところ。そのうち、通りの名前の由来なんかが分かってくるともっと面白いのでしょう。


ところで、マスターズ。今世紀に入ってからの覇者はT.ウッズかレフティー!!なんですよね。レフティへのこだわりと想いが強い分だけ妙に感慨してしまいます。もっとも、ミケル氏は右利きのレフティだけれど。でもすごい。お陰でこのところ、昼間が眠くて仕方ありませんでした。もっとも、面食い(=容姿重視!?)の私は、ひそかにカプルスを応援していたけれど。。。見ていると、「なんてゴルフは簡単なんだ」と思えてくるから苦笑してしまいます。あんなに簡単に(見えるだけですが)ピンに絡めて(それも200ヤード以上の彼方から)、クリークにつかまってもバーディがとれて、うーーーん、それらが当たり前のように淡々と自然にされているところが、「アガスタ(オーガスタを現地の人は尊敬と親しみを込めてこう発音するそうです)」のすごいところなのでしょうね。今年の中継は、セカンド以降もショット打球音が丁寧に拾われていてとてもよかったと思いました。


さて、本題^^;。今日は英語について。キャディについた外国のお客さんには必ずといって聞かれたのが、「どうして話せるの?」。本当は、それは「ギフト(Gift・天賦の才)」とか「タレント(talent・才能)なのよ」なんて一度でいいからそんな出鱈目言って見たかったけれど、そうじゃないから、説明できなくていつも困っていましたっけ。もっとも、思うに一言で話せるといっても大雑把に分けると3段階あると思うのです。日本語でも同じですが。一つ目は、相手の言っていることが大体わかるけれど、自分の意見をきちんと言えるわけではない程度(これは子供もそうだし、あるいは犬もそうかもしれない)。二つ目は、丁寧な言い回しや適切な言葉選びには難は合ってもとにかくキャッチボールができるというもの。(例えば、同時通訳はまた別の能力がいるし、新聞の社説が読めなくても理解できなくても日本語は話せるでしょ?という感じ)。そして三つめは記者会見ができる、公式の質問ができる、ケースに応じて言葉遣いをきちんとわけられ、母国語並みに言いたいことが主張できるというもの。


で。もちろん、海外に住んだことも留学したこともないし、センター試験の英語の得点はいつも伸び悩んでいたし、英語という「科目」が好きでもなかったけれど、とにかく外国の人と話がしたい一心で、最初は文法なんか滅茶苦茶だったけれど、恥なんて一切気にせず、その機会を求めて話すうちに少しずつ話せるようになった、というのが先の質問の正直な答えなんですが、ありきたりでちっとも面白くないからいつもテキトーに誤魔化してましたっけ。もっとも、私の場合、日本語を話しているときは時間をかけて本当に心を開いた人にしかうまく話せないのに、これが、英語だと、人見知りがどこかに飛んでいって、コミュニケーションが容易にできるという心の壁!?とも関連しているらしく、英語で話せるときがとてもホッとする瞬間だったりするのでいささか自己分析不能です。時々、英語を滅茶苦茶上手に操る自分の夢を見るけれど、実際は、公式な通訳が出来るほどの才もなく、ただ、誰とでもすぐキャッチボールするのが得意なだけですが。キャディならそれで充分でしたね。むしろ、英語を母国語にしない者同士が、知らない単語を何とか別の言い方をして分かり合おうとするところなんかが、かえって楽しく面白かったりするものなのです。


マスターズの一場面。ミケルソンとカプルスが互いのバーディを祝福しあい、ホールを歩くときも何か話をしながら回っている。最終日最終組でですよ。日本では恐らくまず考えられない光景。それは日本語の敷居の高さと、英語のフランクさも関係している気がしてならないと思ったのは、つかの間のささやかな英語の会話に心のインターバルを求めてやまない変わり者の勝手な思いなのでしょうか。もちろん、だからといって日本語への敬愛の念を忘れるわけではありませんが。ともかく。英語にしろ、ゴルフにしろ、こうでなければならないとか、これが当たり前、といってような固定観念を一度「疑って」、そしてそれらを「変えて」みることに、何かのきっかけが隠れているような気がします。