「答えられないと分かっていることを聞かれると、いつもとても不機嫌になる」。少し前、あるコラムの中で養老孟司さんがこんなことを言われていて、それがずっと印象的に残っていました。確か、「なぜ、解剖学者になったのか?」とか「昆虫がなぜ好きか」と聞かれてそう感じると書かれていたようでしたが。何故か、答えられない質問ほどよくされるものです。「なぜプロゴルファーになろうと思ったか?」「なぜ、そんなに野球が好きなのか?」「なぜ、そんなにたくさん寝られるのか?(まあ、これは冗談ですが^^;)」。。。ともかく。嫌いになるのに、一言で言い切れる理由がないように、好きになるのも理由なんてない!のです。敢えて一言で言えば、むしが好かないから嫌い!なのであり、ウマ(呼吸)が合う!から好きなのです。


そして、キャディをしていて困った質問の第一位は「いくつぐらい(のスコア)でまわるの?」でした。これが愚問中の愚問。たとえどんなに好調のときでも間違いなく不機嫌になりました。野球選手に今年は何割打ちますか?という(失礼な)質問と変わらないくらい思いやりに欠ける質問ですね。もし、どうしても聞きたいなら、ベストはいくつですか?と聞くほうが親切でしょう。質問力は思いやりはもちろん、会話力にも関係があるのでは?とよく思ったものでした。でも、どうして個人的なことを聞かずして楽しい会話を出来る人のなんと少ないことか。。。と感じてもいました。ほんとに日本人も日本もとても大好きだけれど、いつも嘆いてしまうことの一つです。なんでも、公の場でこれほど話すのが苦手なの最たるのが日本人なのだかとか。

そして、日本人は言葉でなく空気で伝える習慣が身にしみていて、並ぶ順番を間違えても空気で伝える!のだと、そう角田光代さんが言っていましたっけ。


つまりは、「伝えたい」「伝えなければいけない」核になるものがないのに、その伝える手段である言葉(英語!)をいくら、上手になりたいと叫んでもなれないのは、その辺にも原因がありそうです。要は、言葉を余り信じていないというか、頼りとしていないのかしら、とさえ思ってしまいます。だから、お互いに顔見知りになると個人的なことを「知らない」と親しくはなれないのだと、信じて疑わない人のなんと多いこと。。。私の感覚では全くナンセンス。なので、時に、よく誤解され、苦労もします。互いに意見を交換し、冗談の一つも言い合えればそれで充分。どうして個人的なことまで暴露しあう必要があるの?と思うのですが。。。いったい何の安心感が欲しいの?と感じる私は日本人にはふさわしくないのかしら?......。


まあ、それはともかく。いつかある本の中にこんなことが。イギリスの公爵とかの大学の教授が、実は冷戦時代に機密情報をソ連側に流していたスパイ団の黒幕だと分かったとき、もちろん政府は公爵の肩書きは取り上げましたが、一方大学の方は、あくまでその人の学術的才能に関して教授をお願いしているのであって、それ以外の場面でしたこととは一切関係ない、として教授は免職とならなかったのだとか。一時が万事、情緒の塊である日本人にはにわかには信じがたい話ではあるし、これを真似したらいいと思っているわけでもないけれど、「公私」をもっときちんと分けることや、「私的感情を公の場(仕事)にもちこまない」ことについてのメリットがもっと重視されてもいいのでは?と、これはずっと思っていることの一つではありますね。だって、外科医が「嫌い」な患者の手術を手抜きしたり、嫌いな被告を極刑にする裁判官がいたら困るでしょ?これは極論だと言われるかもしれないけれど。でも、要は同じこと。仕事の相棒についていうと、仕事の才能は互いに認め合っているけれど、友人としてはちょっと嫌い、ぐらいのほうが余計な情に左右されなくてちょうどいいのではと思うのですが。。。そしたら、多くの人のこれまた多くのエネルギーがもっとたくさん肝心の「仕事」に集中、集約されて、「仕事力」もあがると思うのに。。。(全部好きにならないといけないと思うから余計なストレスや、マイナスのエネルギーに苦しむのです)これも、日本人にはなじまない考え方なのかしら?。。。と、こんなことを書いていたら、馬鹿なことばっかり言い合いながらの楽しーーいラウンドがとっても恋しくなりました。