「この距離感がお粗末な者は、異性にもてない」と、今日読んでいた本にありました。この距離感とは人との距離感。ボクシングではディスタンスというのだとか。それは、ともかく、人にはそれぞれ親密度に応じて、相手に不快を与える距離感、つまりは縄張り(空間)があるのです。田舎で暮らすと余計な神経を使わずに済むのは、人の数の多寡だけでなく、ここらへんとも関係がありそうです。もっとも、気の弱い!私は背後に知らない人に立たれるのが一番苦手なので、人ごみや電車ではかなり気を遣って疲れるのですが。。。


時に、日本は海に囲まれているお陰で、(歴史的にも)これまで多くの危機的状況を回避できてきたといわれていますが、そして常に同じ風貌の人たちだけで暮らしてきたから、こんなに空間に対して、音痴というか、疎いのかもしれないと、電車で不愉快な接近をしてくる人を見ながらふと思いました。そして、それは決して必ずしも優しくないとか、思いやりがないということではないのかもしれないけれど、つまりはコミュニケーションの仕方(下手さ加減)にも関係している気さえします。「気」とういものは、自然に伝わるもので、「怪しい」気はとても正直です。


そして、ゴルフも、空間の使い方を問われるスポーツ。朝のスタートからクラブハウスを出るまで、その人の格好よさが常に測られている、そんな気がします。例えば、ルールやボールの処置に迷ったら、とにかく自分に不利になる方を選択すれば間違いないし、だれかが打とうとするのにしゃべるのなんて論外、あるいは、どんなに自分のボールの行方が気になっても、それより手前にあるはずの同伴者のボールが見つからなければ探してあげるのも然り。時に、まだ打ち終わっていない人がいるのに、自分だけ打ったら先に行ってしまう人がいるけれど、それだったら、ゴルフ場を借り切って一人でまわればいいんじゃない?と思ってしまいます。海外のゴルファーと一緒にまわるととにかく、会話が楽しい。なのに、なんと日本では、最初から最後までボールの行方とスイングとスコアのことしか話をしないパーティのなんと多いことかと、キャディをしていてよく思ったものでした。(一日という時間と空間のなんともったいないこと。)


空間の使い方と、コミュニケーションのうまさは、なんだか共通点がありそうです。さりげない思いやり、優しさは必ず、相手に伝わるもの。せっかく道を譲ってあげてもそれにさえも気づけない無粋な人もたまにいるのも確かですが。。。ともかく、ただスコアに一喜一憂するのも一興ですが、このホールはどんな意図で作られたのだろう?だとか、この景色はいったい何をイメージしているのだろう?とか、そんな余裕が、ユーモアや、格好よさを演出してくれるのではないでしょうか。つまりは、外見の良し悪しではなく、「内面が顔に出る」ごとく、こころが格好いい人は、自然に持っている空気を、そして佇まいを格好よくするのだと思うのですが。。。