疑問を持ちなさい、盲信はいけませんよ、と高橋信次先生はよく申されました。疑問をもったら答えが出るまで追求しなさい、とも申されましたがこの疑問と猜疑心とは全く違うということです。多くの人の中にはこの猜疑心を持って人に接するのを習慣とされている人もいます。私の友人にも大学で哲学を学んだと言い、人は本来、性悪だと言っていたのを記憶しています。悲しいことです、初めて会う人を疑いの目で見なければならない、ということは可哀想としか言いようがありません。確かに多くの人の中には騙すような行為言動をする人もいるのは否定できません。しかし、生まれながらの悪人はいないのが真実ではないでしょうか。自分の身を守る為とか欲望を満たすためにとかそのような環境や習慣の中で人を騙すような人間になってしまった人もいるでしょうがその人とて生まれた時には可愛いい赤ん坊でニコニコ笑った筈です。周りの人々はその笑顔を観て幸せな心になれた筈です。その赤ん坊が大きくなるにつれて人に苛められたり、騙されたり、裏切られたり、親に愛されることがあまり無くて、段々に歪んだ心を作り悪の思い行為に走るようになったのではないでしょうか。そのような人を観て性悪説を唱えるのは偏った見方しか出来ないその人自身の心にも問題があるとしか言えません。高橋信次先生は人間を含め全ての生物は天上界から生まれ出でると言われました。地獄界から生まれることは出来ないとも申されました。性悪説を唱える人は己自身も悪人であると思っているのでしょうか。もし、自分は悪人であると思える心があったならば善が分かる人です、善悪の判断が出来るということはその人の心の奥には自分に嘘がつけないことに気付いている部分が存在しているのです。猜疑心でこの人生を生きるということは何と悲しいことでしょう。家族、友人、隣人をいつも疑いの眼でみて生きる人生がいくら地位や名誉、お金に恵まれても寂しい悲しい人生としか言えません。愛、慈悲に遠き人です。己の欲望や好みのみ満たされて幸せだと思いこむ人もいるのでしょうが人は多くの人に支えられて生きて居られるのです、前にも言いましたが、食べ物一かけらでさへ作る人がいて口にすることが出来るのです。無人島で水も無ければ食べる物も無いところに自分が一人おかれたのを想像してみて下さい、毎日の生活で食べ物をスーパーで買うにしろ、この食べ物は毒が入ってるいのではないかと疑っていたら食べることは出来ません。人に対して猜疑心を抱くということはそれと近いことではありませんか。先日久しぶりに友人が訪ねてきました、その友人は若い頃は人の為に色々奔走して多くの人に好かれて感謝されていました。その友人はもう人の為に何かをするのは嫌だ、自分だけの趣味や好きなことをして生きたいと言いました。しかし、その友人は確かに本気で人を思いやる心が過去にはあったのです。時を経ることで何故そのように自己本位になってしまったのか、何があったのか私は聞くことも出来ずにそのような生き方では心の満足は得られないでしょう、としか言えませんでした。確かに人の為と言うのは偽善であると村上和尚は申されました。人から感謝されたい、人から善く思われたい、という思いを持って人に何かをするとしたならば自己の欲望を満たすための偽善行為といわねばなりません。そのような人が存在するのも事実でしょうが私は人は善なりと高橋信次先生が申されたのを信じていますし、そのように生きて行きたいと思っています。疑問は探究心、好奇心という前向きな思いだと思います、猜疑心は前提として否定的な後ろ向きな思いから出発した物だと思います。疑問を持つのと猜疑心を持つのは全く似て否なるものであると言えるでしょう。自分が幸せになりたいのならば自分を信じ愛することです、それは自分の善我を信じることではありませんか。
高橋信次先生の正法
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