「ライト点いてますか」さんへのトラックバック | スコ猫くまきち日和+

「ライト点いてますか」さんへのトラックバック

「ライト点いてますか」さんから『どうして報道被害を生むのか』 というトラックバックをいただきました。
そのなかで、わたしが書いた『マスコミ批判に思うこと』 に対する意見がありました。
それ以前にやりとりがあったようですが、そこまで探して読んではいられません。
トラックバックいただいた部分について、わたしなりの見解を書いてみたいと思います。

『ひとりひとりではマスコミは変えられない』
これが、ライト点いてますかさんの見解かと思います。
それはごもっともです。
だから、社会全体、世論全体でマスコミ批判が盛り上がってきたいる今の状況は、わたしは好ましいと考えています。変われ、変われと思っているんですよ。

ただ、単に攻撃するだけでは、既成のものがつぶれてもまた新しいメディアが同じことを繰り返すだけです。それでは何もなりません。
一時のムーブメントで終わってしまいます。
資本主義のなかで利益を生まねばならぬ企業体のなかにメディアは存在しています。
だから、すでに内部にいる記者は、その企業体に組み込まれているために、ひとりひとりが自覚を持つことができないというのが、「ライトさん」さんの主張かと思います。

わたしは、記者全員がその意思や取材姿勢まで、組織に組みこまれてなんかいない。個人はひとりひとりの意思を持っているだと思っています。そ
うじゃない人もいるでしょうが、意思を持ち、批判を抱えながら、大勢に流されまいと自分自身を見つめながら仕事を続けている人たちは大勢います。
無益な競争に流れていきやすい今の現状を打破するためには、やはり、常に自分自身に目を光らせることができる内部の人間も必要なのです。
批判されることで、自覚を新たにして現場に向かうひとりひとりがいる。
そのことがわたしは大切だと思っています。そこから自浄作用が生まれます。

外部から、もしくは上からの押しつけで変わったとしても、それは表層的なものだけです。すぐに元に戻るでしょう。

となると、外部も変わっていかなければならない。売ることを目的にセンセーショナリズムを追求するのが今のマスコミなら、騙しでしかない派手な見出しを、報道を読者が、試聴者が拒否すればいい。ところが、やっぱり売れてしまう。売れてしまえば、正しかったと判断され、再び同じことを繰り返す。それがずっと続いています。
なぜ、売れるのか。なぜ、興味を引かれるのか。
大衆に、そのひとりひとりに同じ意識があるからです。
派手にぶち上げられると、興味を引かれ、その奥にある真相など自分で考えようともしない。素直に受けとめ、へ~、すごいな、そうなんだと納得してしまう。さらに尾ひれをつけて広げていく人もいるでしょう。
そういう人たちが大勢を締めている限り、マスコミは変わらないでしょう。
マスであらねばならないのですから、大勢の意向に自然に添って行くわけです。

ですから、安易に批判するまえに、自分の心のなかものぞいてみてほしい。
そのことをまず、わたしは伝えたかった。
今、マスコミ被害に憤るのは簡単です。皆が憤っていますから。大勢のなかで、その勢いに乗って声をあげるのは簡単なことです。連帯感も感じられますし、誰かを攻撃するのはスカッとして気持ちいいでしょう。
中国でサッカー日本代表が激しく揶揄されましたね。日本人はみんな眉をひそめましたが、自分で考えもせずに批判するのは、全くあのときの中国の人たちと同じことです。
受けとめるだけで終わらせないでほしい。もう少し突っ込んで、ひとりひとりが考えてみてほしい。
本当に自分自身で、マスコミはひどいと思っているのか。だったら、なぜ、新聞を買うのか? 雑誌を買うのか? テレビニュースに、ワイドショーにチャンネルを合わせるのか。
ひどいものはひどい。いいものはいい。それぞれがその意識を持って報道を受けとめることで、報道の仕方も変わらざるを得なくなる。
そうなって初めて、メディアも変わっていくと思います。
これだけ批判がすぐに出るということを考えると、すでに変わりつつあるのでしょう。

そのきっかけになるのが、ブログかもしれないと期待をもって見ています。
自ら書くことで自分自身の意識が明確になるでしょうから。
もう、今までどおりのもん切り型の脅しでは、読者がついてこなくなる。
いい加減なことを書けば、クレームがくる。裁判になる。
その意識を、情報を受けるだけだった人たちにも持っていただきたいという願いをこめて『マスコミ批判に思うこと』を書きました。

もちろん、unnosadayukiさんは、そんな大衆の一員ではないとおっしゃるでしょう。
でも、そのことも、もう一度、見つめなおしてほしい。
頭で考えていたことと、現実のその場に立たされたときでは、人は変わります。考えたとおりになど、なかなか行動できるものではありません。思い通りに行動するためには、経験の積み重ねが必要です。
人間は自分の意思を最後まで全く変わることなく貫けるものではない。わたしはそう考えています。自分はそうでないと思っていても、知らず知らずの内に周囲に流されてしまう時もある。その怖さも、この記事にはこめたつもりです。

戦争のことに触れられていますが、わたしも同じことが言えると思うんですね。
戦争に流されていく日本と、報道被害を生むマスコミが似ているという点では、同じ感想を持っています。ただ、そのとらえ方が少し違うように思います。

戦後、本当は戦争なんかしたくなかったと言うと、「ライト点いてますか」さんはおっしゃる。
たぶん、そうなのでしょう。
戦時下には、戦争反対などと言えない環境があった。反抗すればみな、治安維持法で処分されました。自分の、家族の命を考えればやはり長いものに巻かれろです。流されていくしかないひとりひとりの弱さというものも、考えければならないでしょう。

でも、もし、圧倒的多数が戦争はけしからん、やるべきでないと考え、手をつなぎ、抗議できていたら? というより、圧倒的多数がきちんと、それぞれに戦争反対の気持ちを持っている環境があったとしたら、そんな環境のなかで軍部は簡単に台頭してこれたでしょうか?
不況で生活が苦しい。そのために、大東亜共栄圏を作りアジア全土での繁栄を得るために中国大陸へ進出しよう。そんな論議が盛んになり、それが大義名分となって、世の中全体が押し流されていくなかで、軍が力を蓄えていったとは考えられないでしょうか?

個人の力は社会全体から見れば小さいものです。でも、小さなひとりひとりの集合が街であり、国であるわけです。そのひとりひとりが変わることこそが、世の中を社会全体を帰ることになると思っています。
ひとりひとりの総意が国に繁栄されることが民主主義のはずですから。
ひとりひとりをないがしろにしては、何も始まらないし変わらないと思っています。