婆の認知症を疑った時
当時、私は、認知症の知識は殆んど無かったのですが、
(現在もそれほど詳しくありませんが)
周囲の方に、婆の認知症を隠そうとは思いませんでした。
隠して取りつくろって暮らすストレスより、
隠さないで、ありのままに暮すストレスの方が、少ないと思ったからです。
どんな状況になろうとも、世間から何を言われようと
親類に迷惑をかけないよう
問題行動の対処、最後の看とりまでのプロセスを想像し、
自分たちの、出来る方法で、介護しようと決意しました。
養父(末期がん)、実父(認知症)、実母(呼吸器不全)で送りました。
最初開業医で診察を受け、胃潰瘍の診断で通院していましたが
好転せず、総合病院の、消化器科を受診した時は、既に多臓器に転移していて、手術不可能な状態でした。
手術を担当された主治医の先生は、信頼のおける方で、
本人が、苦しまない様、痛み緩和に重点を置かれ、
又、最後の3か月程を、家族とともに過ごせるようにして下さいました。
最後まで、痛みに苦しむことなく旅立つ事が出来ました。
実父、実母は、兄夫婦が同居し、介護をしていたのですが、
義姉が、献身的な介護をしてくれました。
私達、外に出た兄弟は、何一つ言うこと無く、
実父、実母とも、臨終に立ち会うことが出来、只感謝有るのみでした。
3人共、穏やかな最後でした。
そんな経験から、婆が認知症に成って、
いずれ、壮絶な介護生活に成る覚悟をしました。
その時、考えたのは、本当にどうにもならなくなったら
婆を犠牲にしても、
自分たちの生活を少しでも維持するようにすることでした。
なぜそのように考えたか?
それは、婆を主体に考えていると、必ず破たんすると、思いました。
当時、自分なりに考えていた、問題行動の対処方法は、
1 徘徊行動
① ・出来る限り、婆の後を付いていく
② ・行方不明になって、無線放送で協力をお願いすることのないようにすること。
③ ・家の内部から、婆の手の届かないところに鍵をつける。
④ ・余り徘徊行動が、激しくなって、手に負えないようになったら、
敷地全部に柵を設け、絶対外に出れないようにする。
でした。
当時の婆は、知らない間に、居なくなって、夕方には必ず帰ってきていましたが、
私の退職後は、婆の行動を把握するため、3時間おきに、婆が何処にいるか、
見ていて、その場所にいないと、探していました。
その内、30分おきに、居場所確認が必要になり、
婆の行動パターンが、掴め、居なくなると同じ道を探し、
見つからない様、付いていくのですが、必ず見つかり、
「何しに来たんや」と探したことが不満顔でした。
一日に、2~3回は、徘徊に出かけ、
夜間出かけようとしたことも、何度も有りました。
どの様に説得しても、他の事に気をそらせても、
無駄でした。必ず出て行きました。
夜間でも、一緒に行くというと、拒否し一人で出かけるので、
見失わない様、見つからない様、注意しながら、
付いていく日々が続きました。
少しづつ、一緒に歩く時を多くし、
付いていくことに慣れさせました。
一部の、近所の方、顔見知りの方は、
一緒に探してくださったり、何処そこに居たと教えて下さり、
通りがかりの方からの電話2回有りました。
感謝しています。
実父の認知症介護を見ていて
身近で介護している者以外、家族、子供でも、
実際のところは、解らないことを体験していましたから、
まして、認知症介護を経験した方以外、周囲の方には(一部の方を除き)、
理解できないことが解っていました。
警察のお世話になったことも3回ありますが、
警察の対応には、腹立たしいことも有りました。
強い口調で、説諭され、対策と、始末書の提出を求められました。
職務を執行されているのだから、抗議はしませんでした。
今でも、婆が認知症と知っている方は少ないです。
後で知ったのですが、
婆は周徊という行動でした。
徘徊=目的を持って出かけ帰り途が解らなくなる。
周徊=何時も同じルート(パターン)を通り、帰ってくる
説得しても、他へ関心を持たせても防ぐことは不可能
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