数年前、古い友人が亡くなった報せを受けたことがあります。
彼は重い病気を患っていたので、
私にとってはある程度、受け止めきれる事実ではあったけれど、
やはり現実になるとショックが抑えきれず、
私は当時facebookに、彼との写真や思い出を公開し、彼に向けて届けばいいと願いながら、メッセージを添えて、悲しみを昇華させようとしたのでした。
facebookには限定公開機能がついているため、私の投稿記事は、友達に限ってのみ閲覧できるようにしました。
しかし、彼と共通の友人がその私の投稿を見て、私にメッセージを送ってきました。
「投稿を削除してほしい」 と。
彼の死をさらさないでほしい。
思い出は、自分の胸にしまっていてほしい。
彼の死を同じく悼む友人として、
彼のことは、そっとしておいてあげてほしい。
友人の切なるメッセージの内容に、
私以上に、彼の死に苦しむ気持ちがうかがえ、私はすぐに投稿を削除したのでした。
私の行動が、より友人の悲しみを刺激してしまったのなら、申し訳ないことをしたと。
しかし…
私はまた、その友人のメッセージに、深く傷ついてもいたのでした。
私のしたことが、
彼の死を不特定多数の人に晒す行為だと、非難されたことに。
友と呼べる人たちと、彼との思い出と共に
悲しみを共有したかっただけなのに、と。
その時の私の行いが正しかったのか、そうでなかったのか。
私には未だに分かりません。
分からないからこそ、その投稿はすぐに削除しました。
ただその経験から、いきついた考えが私にはあります。
「死」とは、誰にでも平等に与えられている権利でもある。
と、同時に、
他人の「死」に自分が直面したとき、
それが直接的であれ、間接的であれ、
その「死」は、「死」という事実を受け止めようとしている人のものでもある。
ということ。
私という人生の中の出来事として、
「友人の死」が起こった。
その事実をどのようにして受け止めようと、
それは私の自由。
また、
例えば誰かが突然、自ら命を絶つ選択をした。
それは、その人が与えられた人生の中で
その人が自由に選択できる、選択肢のひとつでもある。
その人には、自死を選ぶ自由がある。
悲しみで胸がいっぱいになると、
誰かを責めたい気持ちになる。
故人に向けたり、
故人のことを語る人にだったり。
自分自身に向けてだったり。
それも悲しみが癒える過程の一つだと思うから、静観するしかないと思っている。
だけど…
悲しみは連鎖するから、
できる事なら、誰をも否定してほしくないなと思う。
こんなことを書いたのは、
もうお気づきのことだと思いますが、
ある俳優の方の、自殺のニュースが流れたことがきっかけです。
母となった今、
もし我が子が自死を選んだら。
そう思うと、本当にいたたまれなくなる。
どれだけの苦しみだったのだろうと、
我が子の苦痛を思い、
己の無力さを責めるかもしれない。
だからこそ改めて思う。
自分に言い聞かせるように。
悲しんでもいい
苦しんでもいい
死んだって、いい
あなたが選ぶ全ては
あなたのもの
あなたの人生に与えられた
あなたの自由
私は悲しむ
私は苦しむ
私は、死ぬことだってさえある
私が選ぶ全ては
私のもの
私の人生にあたえられた
私の自由
こんなときこそ、
何が正しいとか、
間違っている、とか。
判断することは、控えたいと思います。
全ての人の心に平穏がもどりますように
眠れる人の妨げが取り除かれ
安らかとなりますように