年が明けてからの初めての投稿は、気合いを入れて、自己開示。
いっちょ、めんどくさいことを書いて、自分をとことん、見つめ直してみようと思います。
近頃、といってもここ一年前くらいからですが…。
実はブログやSNSで発信すること自体に、最近どうも気持ちがあまり乗らないことが多くなってきていました。
私としては、多分これは一過性のもので、『今は、そういう時期なんだ』
くらいに考えていました。
今年に入って、ブログのタイトルを見直し、私がブログを書くに当たって、大切にしたいことは何だろう、とポリシーについて改めて考えてみたのですが。
そうして自分をもう一度見つめ直して出てきたことは、『もう、闘いたくない』っていう気持ちでした。
今までブログやSNS上で闘かってきた、というつもりもなければ、そんな実感だってなかったのですが…。
ここ何年か前から、まるで自分のテーマであるかのように『手放す』ということをよく意識するようになっていまして。
それを繰り返していくうち、初めは、物理的に断捨離していたり、物事の結果についてこだわりを無くす、…だったりしていたことが、いつの間にか今は、私の中の信念のようなもの(深いところにある部分)にまで触れる段階に来ている気がしています。
諦めたのか、手放したのか、その辺は微妙なところですが、そうしていくうち、誰かに『理解されたい、分かってもらいたい』そんな観念からも力が抜けたように感じています。
そうすると、以前ほど『伝えたい』と思う気持ちが少なくなってきたのです。
それは、私のこれまでの『伝えたい』の中に、無自覚ながらも、誰かに『理解されたい』が多々あったからなのかもしれません。
例えばfacebookやアメブロなどの『いいね』ボタン。
そもそもあれは、読んでいる私が、書いた人に対して『それ、いいよねー』って共感を寄せたことへの意思表示でありアピールですね。
意思の表示は、自己表現というよりはコミュニケーションであり、挨拶のように、人との関わりのなかでは必要不可欠なことなので、何とも思わないのですが、特にfacebookの場合だと、
『◯◯さんがいいねと言っています』
と、その行為自体が他の人のところに、その人の投稿記事のように流れてくることがある。
facebookとブログの大きな違いは、そうやって情報があっという間に拡散していくところにあると思うので、それについては私は了解しているつもりなのですが。
ここで。
自分が『いいね』と宣言した(その意思表示が拡散する、ということを前提として考えると、それは私にとって、高らかにネット上の友人達に宣言する、というくらいスケールの大きい自己表現の話になってくる) 場合、その私の宣言を見たなかには、色々と思う人もいるだろうと思ってしまう。
『そうかなー、そんないいかなー?』
『うんうん、分かる、すごくいいよね』
と、いった風に。
実際、他の方が『いいね』と言って流れてきた記事を見ている私は、このように色々と感じています。
思うのはその人の自由だから、私も好きなように色々と感じたり、思ったりをして、刺激を頂いているので、そういう楽しみ方ができているのも事実。
そうしているうちに、気がついたらサイレントウォッチャーになってしまっていました。
多分、設定でいくらでも情報が拡散されないようにしたり、或いは自分のところに流れてこないようにできるのでしょうけれど。
実際、ネット上での目に見える『いいね』というものが、そういった共感のサインでさえもが『自己表現』に繋がると考えたときに、
(『今は』ですけど) 表現する必要ないよな…と、思ってしまうのです。
私の中の『伝えたい』パワーがみなぎってこない今は…。
それなら何故ブログを書こうとするのか、
…というと、私にとってのブログは、私自身のための、思考の整理術だから。
それなら何故、ノートや日記にしたためないのか、
…というと、どこかで誰かが見ている(聞いている)かもしれない、という緊張感が、私の頭を冷静にしてくれるので、書いた後から見て、私自身の気づきを発見したり、確認を深められるような気がするから。です。
きれいごとを言うと、オマケとして、
私と同じような人がもしかしたら何処かにいて、私の文章を読んだときに、『うん、そうだ』と、同じく共感の波を感じたり、私のように、記事を読むことで自分でも気づかなかった自分の思いに気づくような事があったら、ラッキーだし、そういう連鎖があったら面白いな、ということ。
だから私は、自分のブログには、目に見える『いいね』がたくさんつかなくてもあまり気にはなりません。
誰かが、自分の中で『いいね』と思っていてくれたらいいし、もし、その共感が興奮や喜びを伴うもので、相手に伝えたい衝動をもたらすものだったら、そんな思いからのポチッと『いいね』は、もらえるなら欲しい(←非常に贅沢な事を言っていますね(^^;)
ただ、アクセスが増えれば、その数だけの人の目に触れたことは分かるし、この数の中には『いいね』と思ってくれた人もいれば、『ふーん』と思った人もいるんだろうなと、勝手に想像しています。
なので、私はアクセス数は気にしていたりします。
タイトルの、『もう、闘いたくない』に戻ります。
闘い、って色々んな意味があるのですが、自分との葛藤、のようなものがほとんどです。
中には、自分が発信したことへの批判的な想いを受けたり、そういったコメントを(まだあんまりもらったことないけど)を受けた場合の、明らかなる対人との関わりも意味しますが…。
どんなに心を尽くしても、
どんなに美しい言葉で語っても、
どんなに美しく身なりを整えていても、
とにかくどれほど意図したところで、
受け取る人の気持ちを操作することはできないわけですよね。(操作したい訳じゃないですけど。もし操作できたとしたら、それは洗脳ですからね)
自分では精一杯分かりやすく説明してるつもりでも、誤解される時はされるし、真意が伝わらない時はもあるし、よしんば伝わったとしても、共感の波に届くどころか、ひどいときは反発して波が返ってくることさえある。
反発や批判は、自己を傷つけられたと錯覚しますから、面白くないです。下手するとすごくしんどいです。
潜在的な承認欲求を自覚する自分自身とか。
そんな自分を嫌悪してみたりとか。
そんな諸々を考えると、そこから自由になるしかないな、と。
断捨離もいいけど、自分の中をもっと もっと、ラクにしてあげよう。
『いいね』と宣言してもいいし。
『なにソレ』と否定されてもいい。
自分の感覚は自由である、と認めてあげることは、
誰かの感覚も自由である、と認めることとイコール。
『もう、闘いたくない』って思ったら (闘いたくないというか、色々と気を揉んだりすることを止めたいなぁと思ったら) 自然と、自分を含めた全てを、否定も肯定もしない、という感覚がやってきた。
それが、私にとっての『ニュートラル』。
私はこの言葉を、このブログの新しいタイトルにしました。
そこで一旦、今までの『表現する』という欲求がなくなったのだけれど。
生きている限り、世界と関わりを持って生きていきたいという、本能に近い欲求は持っているので、その、世界との関わりを持つ手段としての『表現』を、私はまたこれから新たに始めていくと思います。
あー めんどくさい奴だなー 私は。
長々と書くと、いつもそう思ってしまう。
だけど私は、そんなめんどくさい自分が好き。
今は赤ん坊の世話で忙しくて、なかなかブログに文章をまとめられないでいるけれど、心の中は、相変わらずいっつもめんどくさいお喋りをしています。
引き続きこれからも、書けるときには、そんな心のお喋りをまとめていきたいと思っています。
