前回の記事。

書き終わってすぐは、『ウン、書けた!』ってささやかな達成感があったのだけど。

一夜明けた明くる朝から。

『いや、まだ足りない。
   まだ、言葉足らず!!』

って不満足気な千晴さんの声。

それから数日、じっくりと、何が足らないんだろうか??と、また耳を傾けてみた。


※           ※           ※



あのね、

『赦す』と『許す』は、違うのよ。


日本語としての意味も、違う使い分けができるけど、ここでは語彙というより、ニュアンスで使い分けて説明しましょう。



自分を愛するということは、
自分を好きになる、という単純なことなんだけど、そこに行き着くためにすることがあるの。



それが、自分の嫌な部分、怠惰な一面や、愚かで恥ずかしい言動など。


自己否定や卑下も通り越して、ありのまま、『これも私の一部』と受け止めていくことよ。って伝えたいの。


こうありたい 、とか
こうあるべき、 とか
はたまた、
こんな姿にだけはなりたくない、とかね。


こだわり。



持つ持たないも自由だけど、
こだわりを、ポリシーと言ってもいいけれど、そのポリシーと違うものが目の前にやってきても、ジタバタしないでよ。



こだわりが強ければ強いほど、風当たりキツくなったり、それと真逆のものがまるで自分を試すようにやってくるから。


でもそれも、川の水に打たれて丸くなる石のように。


全ての出来事は、自分を磨いてくれるのよ。



だから、こだわりたければ、こだわりを貫いたらいい。


怒りたければ、怒ればいい。


怒りは、悪いものではなくて、
魂の経験を豊かにするための、喜怒哀楽という大きな四つのエッセンスのうちの、大切な一つ。

ただ、怒りを他人にぶつけると、現象が生じて、結局自分に返ってくるから気をつけた方がいいよ。



怒りも、悲しみも、否定するものは何もなく、自分の中にある(生まれる)感情は、ただ『私』という自己(魂)を豊かにするためにあるの。
『私』が、自分の中の気持ち(感情)に気づき、その想いの存在を承認するために、あるの。



これは、即ち、人を本当の意味で愛する、『愛し方』に繋がっていくんだよ。



自分を愛さなきゃ、人を愛せないよ。

誰かから愛されたかったら、まずは自分を愛するのよ、って言葉は、このためにあるの。



人も私も、皆、同じ感情を持った人間。



そして世の中には、様々な魂たちがいる。


中には、ものすごく魂の経験豊かで、磨かれた光の珠のような方もいるでしょう。
そんな方は穏やかな性格で、非の打ち所もないかもしれない。


また、年齢を重ねてはいても、未熟な精神の持ち主もいる。


どちらの場合も同じように、
ただ、『そうなのね』と、承認してあげれば良いの。



前回も言ったね。




原発は? 戦争は? 殺人は?

許せる?




許せないなら、許さなくてもいい。

『許可する』って意味での『許す』なら、許可しない、って相反する極論が生まれる。


どちらか反対側に所属して意見を言う限り、自分にはもう反対側が欠如していることを宣言するだけで、それは堂々巡り。
議論しても、お互いを主張し合うだけ。

善悪の判断、良い悪い、
許す、許せない、

味わうだけ味わったら、
その極論を超えていける。


そうやって、丸ごと受け止めていく。


つまりは、
『許せない』自分をも、
『赦す』ということなの。


自分に欠如している部分があることを見つめ、それを知って、良いも悪いも、好きも嫌いも、自分に生まれるありとあらゆる感情を受け止めていこうとする姿勢こそが、一つになろうとする、融合する、愛の姿なの。

それが、愛するということ。


自分の中で、自分の全てを愛することに成功した人は、目の前の人のことも、そうやって愛していける。


そして恋人と、夫婦関係で、親子間で、
誰かを愛そうとする過程の中で、
人は本当の愛し方に気づいたり、
覚えていくことになる。


だから、人生で起こる経験の全てが、素晴らしいの。



罪も罰も、
『ありのまま』を認めること、
受け止めていくこと、
感じ取っていくこと、
そうやって、人生を味わうことが、
自分を愛していくこと。

人を、
本当の意味で、
愛せるようになることを
2000年以上前に生誕したイエスは説いていたの。



だから、『赦す』って字を使うと、宗教っぽくなってしまうのは否めないね。



でも、赦し、って、
そういうこと。



ただ、素直に
承認したら、いいんだよ。




『存在』を『認める』



全ては、
気づいてほしいだけ。



それも、
他でもない、あなた自身にね。