「インスピレーション」でカテゴライズしている記事は、日記以上に個人的な内容で、自分の為のいわば覚え書のような感覚で書いています。

今日は直観を書き留める意味での、またまたプライベートな内容です。



この記事を書く今はもう、日付が二日になってしまいましたが、今日は月初めでした。
この春に引越ししてきて以来、毎月一日には氏神さまにお参りをするようにしています。
初めて引越しのご挨拶にお参りした時から、参拝をすると何かしらのインスピレーションがあるので、毎回『期待はしてはいけない』と思いつつも、何処か心の中で、今回は何を感じるだろう?と、期待するような気持ちで参拝に行くようになりました。

先月一日にお参りしたときは、
「気を引き締めていかれよ」
と、感じました。

具体的に、どんなことに気を引き締めていったらいいんだろう?と思いましたが、やはり先月は色んな場面で、「気を緩めてはいけないな」と思うことがありました。

そして十月に入った今日。

「謙虚にいかれたし」

私が自分の人生を上手く運ばせる上で、謙虚さはとても重要で、神社に参拝する行為は、私がその謙虚さを取り戻すこと、思い出すことに繋がるから、これからも続けた方が良いこと。

それから、過去に参拝した神社へも、一度行ったら満足して終わりにするのではなく、感謝を伝えに再び参拝することも、とても大切。

そうした行動を信仰といい、信仰心が謙虚さを生む。私の人生、魂を磨くことになるから、続けなさい。

と、いうような内容でした。


そこでふと思い出したのが、六月に行った三輪(三輪明神)さん。

あれから三ヶ月以上の月日が経ったな。
気候も良くなってきたし、また行こうかな。

などと考えながら、帰ってきました。

謙虚さは、もしかしたら私の人生のテーマの一つなのかも?なんてことも、ふと思いながら。

あらゆるシーンで、謙虚さが必要だな、と感じています。

親と会話するとき。
家族といるとき。
お客としてお店の人と関わるとき。
友人やママさん達と話しするときもそう。


神社に参拝しようとする直前の、あの厳かな気持ちで接するのは大袈裟と思われるかもしれないけど、いや私にはそのくらいの気持ちが大事だ、と今日は改めて思いました。

謙虚さと卑屈さは、違う。
「私なんかが」
「私など」
と、自分を落とすような感覚は、卑屈なだけで、それはある意味で高慢の裏返し。

神様の前で自分を低く感じたり見せたりする必要はない。

むしろ、『神の前にいる』。

どう取り繕うが、神は全てお見通しなのだから。と思えば、肩の力を抜いて素直になれる。「こう思われたい」とか「こうなると困る」とか、そういった期待も全て手放せる。

丸裸な気持ちで、降りかかること、出会うこと、見えること聞こえることを、全て受け止めます。一切の先入観、期待感も持たず、起こることあるがままに、受け入れます。

そんな感覚を、私の中で謙虚と言う。

そして、神社仏閣を参拝するたび、自然とそんな感覚になれるのです。



自分はこんな人間。
こういう性格。
だから、嫌だ。とか、だから仕方ない。とか。
自己分析もたまには必要だけど。


今の私には、それで自己価値が上がったり下がったりするから、やめとこう。

自分で自分を評価したり、判断したりすることも忘れて。

ただ真っ白に。
自分に目覚める思春期前の、子どもの頃に感じていたような感覚かな。

高慢な子どもって、あまり見ない。
それは大抵、大人の真似をしているだけで。

謙虚さは、子どもに学べることも多いなと、ふと思う。



と、いう具合に。
今日の参拝でお題を頂き、今日は「謙虚さ」について考えてみました(^◇^;)な、内容になりました。


今月のテーマ、じゃないけど。
一生必要なことだと感じているけれど。今日、氏神さまから感じたことを、今月はより意識して過ごしていこうと思います(^_^)。


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写真は先日の運動会での空模様。
ちぎれ雲のこんな空も大好きだなぁ(๑′ᴗ‵๑)