今から14~5年くらい前のことだけれど。
とあることがきっかけで、天河大弁才天社にご縁があり、
よく通っていた時期がありました。
祝詞の中で、般若心経があげられたり、
太鼓をどんどんと鳴らしながらリズミカルな拍子が取られたりと、
それまで持っていた私の中の神社のイメージが覆され、
当時の私にとって、天河神社はとても新鮮でインパクトの大きいところでした。
そして、あの洞川の清らかな空気や、天河周辺の迫ってくるような自然がなんとも好きでした。
無性に天河が恋しくなり、一人山道を走らせドライブをしたこともあったほどです。
気づけば夜までそこにいて、大きく無数に光る星空を眺めていたこともありました。
ある夜、特別なセレモニーに参加させてもらったことがありました。
故人を偲んで、神殿と能舞台との間の土間に、薪を組んで火が焚かれ、祭事が執り行われるのを見守っていました。
その日はちょうど台風が向かってきている、真っ只中でした。
運良く、台風が直撃する前に現地に着くことができていたのですが、祭事の間は周囲の森がごうごうとすごい音を立てて風が吹いていました。
宮司さんの祝詞が終わったちょうどそのときでした。突然、そんな台風の風が勢いよく境内に吹き込み、
中央の薪の炎がその風に乗って、神殿の祭壇へと続く階段を、まるで龍が駆け上っていくように炎が走ったのを目撃したことは、今でも忘れられません。
一同が、驚きの顔を隠せない一瞬でした。
そんな神秘的な瞬間に立ち合わせてもらえたことも、思い入れの深い理由ともなっています。
その頃、私は人生で初めての、苦しい時期を迎えていました。
どうしようもなく孤独で、寂しくて、辛い時期でした。
悩んだり、一人悶々としたり、部屋に閉じこもってみたり。
色々な本を読み漁ってみたり。
誰しもが一度や二度は、そんな時期を送ることってあると思うのですが・・・。
こんな人生でいいの?
こんな生き方をしていて、このままでいいのだろうか?
そんな漠然とした疑問を抱き、
天河神社の神殿で手を合わせたときでした。
「“生きる”ということの、本当の意味が分かるときが必ずくるから、今はそのままでいい」
という声のようなメッセージが、光のような速さで、やってきました。
今、思えば、あれが初めて聴いた 「声ならぬ声」。
私はそのときすぐさま、神様の、弁天様のメッセージを受けた!
と、思いました。
そこで初めて、「生きる」ということの意味を真剣に考えました。
それまでは、一生懸命に、真面目に精一杯生きることが、「生きる」ことだと、どこかで思っていました。
道を誤らず、モラルを重んじて、道徳心を持って生きることが「正しく生きる」ということだと。
しかし、そのメッセージを聴いたとき、
もしかして、「間違っていてもいいの?」
という思いに気づいたことを覚えています。
失敗して、間違えて、悩み悲しみ、涙をこぼしても、
そういった体験をすること事態を「生きる」というのだろうか?
だから、「そのままでいい」って言われたんだろうか? って。
何とも言えず、力が湧いてくるのを感じていました。
ありのままでいい、って、こういうこと?って。
本当に、「誰か教えてください!」っていう想いでいたので、
一つの答えを導き出すための、大きなヒントを得たような気がしました。
これを機に、私は現実にきちんと向き合うことができ、
その後カナダに渡る道を見つけて、私の天河神社詣ではいつの間にかなくなりました。
今、その頃のことをふと思い出し、天河にもう一度行ってみたいと思っています。
もう、十年以上の時が経つでしょうか。
道は、あんなに何度も通ったのに、なんとなくしか覚えていない。
でも、車を走らせればきっと、思い出せるような気がする。
今ならまた別の、何らかのメッセージを受けることができるかもしれない。
そんな予感も、しています。
メッセージを受け取る。
そのことを初めて、はっきりと体験させてくれた場所。
思えばそこは、私にとって「天河神社」だったのです。