千晴さんと私の物語。
もうしばらく、続けます。
今日は長くなります。
自分を締め付ける存在を選んで生まれてきました。
と、書きましたが、正しくは、
「この人を、自分を締め付ける人にしよう!」と自分で決めて、その役割をお願いしてきた、と表現する方が近い。
それは私にとって、母でした。
母は、私が生後10ヶ月のときに、公害による気管支喘息を患いました。
喘息は今も続いています。
私は物心ついてからの記憶の中に、母に抱っこやおんぶをしてもらった覚えがありません。
今、小学二年生の私の息子は、未だにおんぶをせがんできたり、背中や膝に乗ってくることがありますが、私には母に対してそれができなかった。
母はいつも苦しそうで、ふうふう言いながら家事をしていて、幼心に母に近づくことができなかった。
まだ小学校にも上がらない小さな頃、
夜、寝ていると救急車の音がしてきて、段々大きくなり、家の前でぴたりと止まるのです。
そして、慌ただしく入ってきた大人達によって母が担架に載せられ、救急車で病院に運ばれていきました。
「死んだらあかんで!
死なんといてや~!」
そう叫びながら、泣きながら走り去る救急車を追いかけた記憶は、今でも鮮明に覚えています。
母はいつか死んじゃうんじゃないだろうか。
そんな不安に怯えながら、まさに自分で自分に不安の刷り込みをしながら、成長してきました。
自然と、母は私にとって不安の象徴となりました。
私がお利口にしていたら、母の病気は治るんだ。
私が悪い子だったから、母の病気が悪化して入院になったんだ。
全て、母と自分を結びつけて考えるようになっていました。
母の言うことは、絶対。
母の言いつけを守る、いい子になろう。
そしたら、母は喜んで、そして元気になってくれる。
小さい小さい子どもの頃からの思い込みは、やがて私を窮屈な価値観の中に押し込め、自由を効かなくさせていきました。
思春期に入る頃から、周りとうまく溶け込めずに悩み、更に自分を押し込めていきます。
苦しみは増すばかり。
うまくいかない現実はあっても、その根本原因が、私が母に対する思い込みにあるとは思いもしません。
だって、それは物心つく前からの環境がそうさせた絶対的な価値観。
やがて成人する頃、誰にも止められない程、恋愛にのめり込みました。
それは健全な恋愛とはとても言えなかった。でもその恋愛を通じて初めて、私に自己が芽生えました。
好きなようにさせて欲しい。
好きなように生きたいと。
初めて、母に真っ向から反発しました。
家を飛び出し、住む場所を転々としながら、やがてその恋愛も終わりを迎えると、それまでの何もかもを振り切るようにカナダへ渡りました。
とにかく自由になりたかった。
でも、何から自由になるのか、私はまだ分かっていませんでした。
だから、自由に生きようとした。
若さだけで、精一杯自由を振舞って生きていた。
そんなとき、カナダの地で、元夫と出会ったのです。
親の存在、過去の辛い恋、仕事、それまで雁字搦めになっていた何もかもが吹っ切れて、解放的な気持ちで過ごすなかで芽生えた新しい恋。
本当に幸せだった。
感覚的に、「これだ」と思いました。
精神的に自由になれた今この状態、これが、私の求めていたものだと。
そしてこの人となら、私は自由に生きられる。幸せになれると。
そのままカナダで根を下ろし結婚していれば幸せは続いたのかもしれない。
けれど私達はごく普通に、一般的によくあるように、日本で家庭を築く選択をした。
そして再び始まった呪縛。
母は、夫を認められなかった。
娘はともかくも、海外に出て自由な生き方をする男性は、娘の結婚相手としては、相応しくない考えがあったよう。
古い考えなのでしょうけれど、
堅実に日本の企業に就職をして、貯金も蓄えているような人と、結婚してほしかったのだと思います。
それから言えば、夫は真逆の人。
私達もまだ20代で、世間知らずもあり、経済面、精神面、母はとにかく私達の結婚生活を心配しては、助言をしてきました。苦言もありました。
その度に、そして引き続いている母の喘息の症状が悪化するのを見る度に、私はまた、母を安心させたい一心で、自分をがんじがらめにし始めます。
そうして、夫まで自分の思うとおりにしようとしました。
男なら、こうあるべき。
夫なら、こうすべき。
そんな考えがほとんどでしたね。
カナダで楽しく過ごしていた頃は、そんなこと考えもしなかったのに。
無理はどんどん傷を作り、血が出て、膿が出て、最後には化膿していきました。
結果、この度の離婚。
長く長くなりましたが、ここのところにすべて繋がり、すべての合点がいったのです。
母のせいにしているのではないのです。
母は、あくまで母親なだけです。
私自身が、私の人生の課題の克服のために、自分をがんじがらめにするキッカケになる役割の人として、母を見ていたんだと、理解しています。
母の人生は、母のもの。
母の病気も、母の人生。
私が、関われる問題ではないこと。
私の人生は、私のもの。
私の結婚の問題も、母が関われるものではないこと。
幼い頃からの思考の癖がもたらしていた、悲劇の思い込みのブロックが、音を立てて崩れました。
千晴さんと繋がり、彼女の過去性を知ったことが、ここまでの気づきへといっきに結びついたのです。
もう今の私は完全に自由になりました。
不幸の連鎖、その鍵を見つけて、鍵穴に入れた途端、その鎖はいとも簡単に解けて消えてしまいました。
このことが、これからの私にとって非常に重要なことだった。
まず、この鎖を解くことが、先決だったようで。
それからというもの、必要なときに、必要なメッセージが、千晴さんからやってくるようになりました。
新しい仲間との出会いをもたらしてくれたり。
物事の意味を教えてくれたり。
予感だったり、予兆を教えてくれたり。
不思議な感覚で過ごす毎日を送っています。
時々、自分は頭がおかしくなったんじゃないか?と思うこともあります。
そのくらい、メッセージや映像がハッキリすることも増えてきました。
で、実際、自分は本当におかしくなった、って心配しているかというと?
いえいえ!
楽しくて、しょうがないです。
これからどんなことが起きるのか、ワクワクしています。
すべて千晴さんの思惑どおりに、事が運んでいくことでしょう。
これからは、そんなメッセージも、少しずつ書き留めていこうと思っています。
iPhoneからの投稿
もうしばらく、続けます。
今日は長くなります。
自分を締め付ける存在を選んで生まれてきました。
と、書きましたが、正しくは、
「この人を、自分を締め付ける人にしよう!」と自分で決めて、その役割をお願いしてきた、と表現する方が近い。
それは私にとって、母でした。
母は、私が生後10ヶ月のときに、公害による気管支喘息を患いました。
喘息は今も続いています。
私は物心ついてからの記憶の中に、母に抱っこやおんぶをしてもらった覚えがありません。
今、小学二年生の私の息子は、未だにおんぶをせがんできたり、背中や膝に乗ってくることがありますが、私には母に対してそれができなかった。
母はいつも苦しそうで、ふうふう言いながら家事をしていて、幼心に母に近づくことができなかった。
まだ小学校にも上がらない小さな頃、
夜、寝ていると救急車の音がしてきて、段々大きくなり、家の前でぴたりと止まるのです。
そして、慌ただしく入ってきた大人達によって母が担架に載せられ、救急車で病院に運ばれていきました。
「死んだらあかんで!
死なんといてや~!」
そう叫びながら、泣きながら走り去る救急車を追いかけた記憶は、今でも鮮明に覚えています。
母はいつか死んじゃうんじゃないだろうか。
そんな不安に怯えながら、まさに自分で自分に不安の刷り込みをしながら、成長してきました。
自然と、母は私にとって不安の象徴となりました。
私がお利口にしていたら、母の病気は治るんだ。
私が悪い子だったから、母の病気が悪化して入院になったんだ。
全て、母と自分を結びつけて考えるようになっていました。
母の言うことは、絶対。
母の言いつけを守る、いい子になろう。
そしたら、母は喜んで、そして元気になってくれる。
小さい小さい子どもの頃からの思い込みは、やがて私を窮屈な価値観の中に押し込め、自由を効かなくさせていきました。
思春期に入る頃から、周りとうまく溶け込めずに悩み、更に自分を押し込めていきます。
苦しみは増すばかり。
うまくいかない現実はあっても、その根本原因が、私が母に対する思い込みにあるとは思いもしません。
だって、それは物心つく前からの環境がそうさせた絶対的な価値観。
やがて成人する頃、誰にも止められない程、恋愛にのめり込みました。
それは健全な恋愛とはとても言えなかった。でもその恋愛を通じて初めて、私に自己が芽生えました。
好きなようにさせて欲しい。
好きなように生きたいと。
初めて、母に真っ向から反発しました。
家を飛び出し、住む場所を転々としながら、やがてその恋愛も終わりを迎えると、それまでの何もかもを振り切るようにカナダへ渡りました。
とにかく自由になりたかった。
でも、何から自由になるのか、私はまだ分かっていませんでした。
だから、自由に生きようとした。
若さだけで、精一杯自由を振舞って生きていた。
そんなとき、カナダの地で、元夫と出会ったのです。
親の存在、過去の辛い恋、仕事、それまで雁字搦めになっていた何もかもが吹っ切れて、解放的な気持ちで過ごすなかで芽生えた新しい恋。
本当に幸せだった。
感覚的に、「これだ」と思いました。
精神的に自由になれた今この状態、これが、私の求めていたものだと。
そしてこの人となら、私は自由に生きられる。幸せになれると。
そのままカナダで根を下ろし結婚していれば幸せは続いたのかもしれない。
けれど私達はごく普通に、一般的によくあるように、日本で家庭を築く選択をした。
そして再び始まった呪縛。
母は、夫を認められなかった。
娘はともかくも、海外に出て自由な生き方をする男性は、娘の結婚相手としては、相応しくない考えがあったよう。
古い考えなのでしょうけれど、
堅実に日本の企業に就職をして、貯金も蓄えているような人と、結婚してほしかったのだと思います。
それから言えば、夫は真逆の人。
私達もまだ20代で、世間知らずもあり、経済面、精神面、母はとにかく私達の結婚生活を心配しては、助言をしてきました。苦言もありました。
その度に、そして引き続いている母の喘息の症状が悪化するのを見る度に、私はまた、母を安心させたい一心で、自分をがんじがらめにし始めます。
そうして、夫まで自分の思うとおりにしようとしました。
男なら、こうあるべき。
夫なら、こうすべき。
そんな考えがほとんどでしたね。
カナダで楽しく過ごしていた頃は、そんなこと考えもしなかったのに。
無理はどんどん傷を作り、血が出て、膿が出て、最後には化膿していきました。
結果、この度の離婚。
長く長くなりましたが、ここのところにすべて繋がり、すべての合点がいったのです。
母のせいにしているのではないのです。
母は、あくまで母親なだけです。
私自身が、私の人生の課題の克服のために、自分をがんじがらめにするキッカケになる役割の人として、母を見ていたんだと、理解しています。
母の人生は、母のもの。
母の病気も、母の人生。
私が、関われる問題ではないこと。
私の人生は、私のもの。
私の結婚の問題も、母が関われるものではないこと。
幼い頃からの思考の癖がもたらしていた、悲劇の思い込みのブロックが、音を立てて崩れました。
千晴さんと繋がり、彼女の過去性を知ったことが、ここまでの気づきへといっきに結びついたのです。
もう今の私は完全に自由になりました。
不幸の連鎖、その鍵を見つけて、鍵穴に入れた途端、その鎖はいとも簡単に解けて消えてしまいました。
このことが、これからの私にとって非常に重要なことだった。
まず、この鎖を解くことが、先決だったようで。
それからというもの、必要なときに、必要なメッセージが、千晴さんからやってくるようになりました。
新しい仲間との出会いをもたらしてくれたり。
物事の意味を教えてくれたり。
予感だったり、予兆を教えてくれたり。
不思議な感覚で過ごす毎日を送っています。
時々、自分は頭がおかしくなったんじゃないか?と思うこともあります。
そのくらい、メッセージや映像がハッキリすることも増えてきました。
で、実際、自分は本当におかしくなった、って心配しているかというと?
いえいえ!
楽しくて、しょうがないです。
これからどんなことが起きるのか、ワクワクしています。
すべて千晴さんの思惑どおりに、事が運んでいくことでしょう。
これからは、そんなメッセージも、少しずつ書き留めていこうと思っています。
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