この世界の法則についてお話しましょう。

一つのたとえ話だと思って聞いてください。





この世界は、鏡でできています。





あなたの目の前には鏡があります。

そしてあなたの前に現れる人すべては、あなたです。

あなたの一部と言っても良いでしょう。





誰かを見て、美しいと感じたとします。

あなたの鏡は、大変磨かれている状態かもしれません。





例えば、懐中電灯を持って鏡の前に立った様子を想像してみてください。そして鏡の自分に向かって、光を向けます。

どうですか?

おそらくあなたはその眩しさに、目を細めることでしょう。

その光はどこからきていますか?

あなたの目の前から?

あなたの前にあるのは鏡です。

鏡はただ、そこにあるものを映し出しているだけです。

光は、あなたの元から発せられているのです。





目の前の人を美しく感じる光を発しているのは、あなた自身なのです。





とても醜い人が現れました。

あなたにもひどい言葉を言ってきます。

辛いし、あなたは相手が憎くて仕方がありません。





目の前の憎らしい相手は、あなたです。





相手の言った言葉が憎いもの、ひどいものであるという知識や、認識そのものが、あなたの中に存在していると言い換えることもできます。





同じことを、赤ちゃんや幼い子どもに言ってみましょう

子ども達は、あなたと同じ反応を示すでしょうか。





相手が怖い顔をしていれば、怖くなって泣き出す子もいるかもしれません。





彼らの中にはまだ、これからの人生を生きていくため

自分の命を守っていくための生存本能による、「恐怖」という認識しか備わっていません。

その恐れしか、子ども達の前の鏡には映し出されないのです。





いかがでしょう。







人によって同じ人物を見ても感じ方が違うのは、

あなたの中に存在する記憶や思い込み、知識や認識が、相手に投影されて認識されなおしているだけに過ぎないのです。





では、どうすればいいか見えてきませんか。





認識しなおすだけでいいのです。

ただ、認めるだけで、いいのです。





嫌なものを、嫌と思うな、などと言いません。





嫌なものは嫌です。

好きなものは、理屈抜きに、好きになるものです。





自分の顔は、自分で見ることはできないように、

自分の中に眠る記憶や感情は、実は自分で思っている以上に、知らないことが多いものです。

それを、出逢う人、起こる出来事のなかに見つけていくことによって、

あたかも鏡に映し出された自分の顔のシミやホクロを発見するように、認めていくだけでいいのです。





良い悪いは、置いておきましょう。





発見すると、どうなると思いますか。





それは、「消化」です。





かくれんぼしていたシャボン玉が、見つかった途端はじけてしまうように。

私には、こんな感情がある。こんな思いがある。このような出来事で、こんな気持ちになる。自分の中の「想い」を感じ取り、受け取った瞬間、「気づいてくれてありがとう」と言わんばかりに、「想い」のしゃぼん玉、想い玉はパチンと弾けて消えてしまいます。

きらきらと、煌きながら。





みなさんはたくさんの人生のなかで、あなたに気づかれないまま弾けずにいる想い玉を、たくさんたくさん抱えてこられました。それはすべて光の玉です。ひとつひとつ弾かせていくことで、あなたはどんどん、どんどん、光のように煌いていくことでしょう。そうして、心が軽くなってゆくのです。





これは誰にでもできること。





だって、そうするために、神さまが私たちをこの世に送り込んでくださっているのだから。





『軽くなって、元の光になって、還っておいで』





母なる神さまは、きっとそう言っていることでしょう。