リアルな私の「頭ん中」
前回のつづき、のような内容です。
前回、私に気づきをくれる人との出会いを経験した、と書きました。
その人の言葉から、醸し出されるオーラから、
感じ取ったことがたくさんありました。
その人とは、おそらく、Facebookをしている人なら一度は
お名前を見たことのあるだろう、有名人。facebook西の女王、
と言われている、玉来なおこさん、です。
*玉来さんのfacebookページはこちら
容姿端麗で、才能豊かな方。
本職がセラピストでもある玉来さんがfacebookで発信される言葉、
投稿されている写真の数々は、ただ、美しいだけ、きれいなだけではない、
奥深さがあります。
そして、玉来さんが主催される会に、大勢の中の一人として、
私も出席させていただきました。
それは女性たちが「シアワセ」について、語り、学び、集い合う場でした。
玉来さんがマイクを取られ、自身の経験を通して得たこと、
心の持ち方などを、お話してくださいました。
それから、私たちからの質問にも丁寧に答えてくださり・・・
同じテーブルに同席した者同士で、
また幸せについて語り合いました。
(そういう訳で、前回ブログに、「今日のまとめ」として
幸せについて考えたことについて、書いていたのです^^)
「玉来さんは、『私は今とても幸せ』とおっしゃっていましたが、
どんな人にも、生きていくうえで辛い出来事や避けては通れない
問題に直面することがあるはずです。そういうものに出合ったとき、
玉来さんはどのようにして自分を満たしていますか?」
会場から玉来さんへの質問、という時間に、
真っ先に私のところに回ってきたマイク。
マイクを握り締めた私の口から、確かこんな質問が飛び出していました。
私は、ただひたすらに 「幸せになりたい」 そう願ってきました。
そして、「自分は幸せな人間なんだ」 そう思い込むよう努めていました。
でも、現実はこれでもかと私を悩ませます。
何が違うのだろう?
どんな心を持てば、私は幸せになれるのだろう?
それが知りたくて、気づいたらこの会への参加を申し出ていたのです。
結果、私が気づいたことが、前回に書いた内容です。
「幸せ」に定義づけなんてない
「幸せ」の定義づけを追い求める必要なんてない
なぜなら、「幸せ」とは、
喜怒哀楽のすべてを兼ね備えていて、
すべてが存在する世界のなかにある
初めから、自分は大きな大きな「幸せ」の中に存在している
これは、玉来さんがおっしゃった言葉ではありません。
ですが、玉来さんの言葉を聞いていて、そして質問をしてみて、
同じ場に集った方々と言葉を交わすなかで生まれた、
私自身が掴んだひとつの答え。
単純に考えると、「実際は難しい」と思えるかもしれないけれど、
「愛されたい」
「幸せになりたい」
この「~たい」という欲求、想いを完全に手放すことができたとき、
実は、「愛され、幸せになれる」という現実を手に入れることができる、
ということなんだと思います。
仏教や禅でいうところの、煩悩からの解脱、とか、悟り、に近いかもしれません。
「愛されたい」「認められたい」
これは、人間が生れ落ちたその日から、
まず親へ抱き、異性へ抱き、社会に抱く
ごくごく本能的な、根源的で自然なものです。
人はここからスタートして、求めることから経験を初め、
求めて与えられるという経験(仮にプラスの経験とします)と、
与えられないという経験(マイナスの経験)、
たいていの人が、そのどちらも体験します。
そして、悩んだり、考えたり、苦しんだり喜んだり。
喜怒哀楽を同時に味わいながら、「生」を実感します。
それが「生きる」ことの意味
それこそが「生きている」ということの実感
現実に起こっている事象にばかり捕らわれ、
心を動かされていることに集中しすぎてばかりいては
その実感すら、味わうことを忘れてしまいます。
そのために、人には『気づき』という贈り物が用意されていて、
その『気づき』を手伝うのが、人との触れ合いだったり、コミュニケーションなのだと思います。
あまり見つめ過ぎず、考え過ぎず。
五感を研ぎ澄ますように、
今何を感じるか、感じているのかにフォーカスしながら、
自分の想いや欲求に耳を傾け、
手放せるものなら皆手放して。
もっと楽に、自由に。
そんな風に生きていってみよう。
こんな想いに至らせてくれた出会い、運命、そのすべてに、心から感謝。