義母との別れ(2024.9.24) | 大切な時間

大切な時間

『普通の事を出来ることが何よりの幸せ』そう思うことが出来たのは、病気になったからかも知れません。毎日の暮らしを大切に、家族に作る食事を中心に楽しみながら更新しています。たまに我が家の猫マサヒロも登場します。



おはようございます。

いいお天気の兵庫です。


【100歳まで生きる】そう思っていた私達が、思いもよらない形で義母を見送る事になりました。


娘さんが母に会いに行ってくれ『みんな会いに来てくれるから嬉しい』と2人で写した写真を送って来てくれたのが4日前。『どこも悪くないから100歳まで頑張る』といつも話していた母が亡くなりました。


24日の朝のブログを更新した直後、だんじりさんから電話。『ん?なに?こんな時間に』と思って出たら、混乱気味の声で『おかんが心肺停止らしいからすぐ来てくれって連絡あった。弟に連絡つかないから家に連絡してくれ』という電話でしたが、言われている意味がすぐ理解出来ず言葉が出なかったのか、『聞こえてるか?』と言われ我にかえりました。


『今長岡天神駅に着いたところで、今から戻るから用意して置いてくれ』と言って電話を切り、弟嫁に連絡して施設に確認して、そこからはいろんな書類や必要なものを用意して何をしていたのかよく覚えてないくらいバタバタで、1時間後には西北に荷物を用意してだんじりさんを迎えに行き岸和田に向かいました。


ベットに寝ている母は眠っているようで、呼びかけにもちろん応えないのですが生きているようで、目が開きそうで、お腹はまだ温かくて本当に信じられず2人で母の手をとりながら泣くばかりで。10分後には弟夫婦も到着。4人でホント信じられなくて何度も何度も呼びかけましたが目を開けることはなく、その後お医者さんが来てくれ死亡確認。


施設の人に聞くと朝5時半にはテレビをつけていた様子。7時半の朝ごはんを部屋に運んだら、いつもは座っている母が寝ているので、声を掛けたら心肺停止だったと言う事で施設の皆さんも驚いた様子。死因は老衰と言う形になりました。93歳でした。


『痛い思いや苦しい思いをせず、寝たまま眠るようにあの世に行きたい』と母の希望通りの亡くなり方だけが私達の救いになりましたが、数日前に会ったばかりの娘さんは、仕事を抜けてすぐに駆けつけましたが、4日前に元気だったおばあちゃんが亡くなったのが信じられないようで、顔も身体も腕も自分なりに確認したかったのか、身体に触れ言葉少なに涙を流し仕事に戻りました。


そこからは弟夫婦と4人で葬儀の打ち合わせや、ご近所に報告、施設とのやり取り等終え一旦西宮に帰ったのは夜で、翌日の用意と書類や親戚や施設に連絡。夜遅くに娘ちゃんが帰って来て翌日3人で斎場に向かいました。


25日は納棺の儀の後はお通夜。

1年と少し前に父が亡くなったばかりなのに、続けて母。叔母の泣き崩れる姿は見ていて胸が苦しくなりました。お通夜は喪主のだんじりさんと私はやる事多くて、何がなんだかわからないような時間を過ごし、私達夫婦と弟と娘ちゃんが泊まり4人でいろんな話をしながら朝を迎えました。


葬儀後のあと、最後に母に触れる事ができるのですが、私は父も義父も触れるのは納棺の儀が最後と自分で決めているので、今回も触れず見送りましたが母の苦労して来た手が印象的で、我慢していた涙が止まらなくなりました。鹿児島から出て来て、働いたお金の半分を家族のために仕送りしていたとよく話していた事を思い出しました。若い頃から色んな苦労をして来た母ですがいつも前向きで明るく、息子には厳しく嫁には優しい母でした。

悲しいけれど、亡くなったと聞いて駆けつけた日に涙枯れるまで泣いたので、お葬式はみんなで笑顔で見送ってあげようと話していたから、明るく見送る予定だったんですがやっぱり無理でした。


火葬場には和歌山の母と妹は行かずバスを見送りましたが、周りが亡くなっていくのを見送る母も辛いだろうと、ミラーに写るいつまでも手を合わせて頭を下げている小さくなった自分の母を見て、今まで以上に親孝行しておこうと今まで以上に感じました。


葬儀を終え、夜勤にむかう娘ちゃんを駅に送りましたが、彼女も連泊からの夜勤はきつかったと思います。娘さん夫婦はご近所周りの挨拶をしてから、私達と一緒に西宮まで移動して帰りましたが、遠方から来た甥っ子や翌日から仕事の息子ちゃん達も大変だったと思いますが、みんなに見送ってもらい母はきっと喜んでいると思います。


(葬儀のあと西宮に帰る時の淀川)


西宮の家に戻り、お骨、位牌、お花など順に2人で祭壇を作り、納骨までは我が家でお供えする事になりました。父と母の好きだったものやお線香を焚いて、朝晩毎日2人で手を合わしていますが、『お彼岸だからお父さんが迎えに来てあげたんだよね』って話しかけると、うんうん!って優しい顔で笑っているように感じます。嫁いでから30年、本当に可愛がってもらったから、亡くなるといい思い出しか出て来ません。


翌27日は疲れがピークだったのか、手脚以外の左身体全部が痺れて歩きにくいので、何もせず一日中寝て過ごしました。


28日の土曜日はだんじりさんの眼科。

前回のレーザー手術後もやはりダメなようで、今回も注射をする事になり、私は待ち時間の間に四十九日法要の手続きと満中陰の手配を阪急でしてから眼科に戻り、だんじりさんの送迎と大忙し。しんどいも痺れるも言ってられない感じの1日でした。


29日日曜日は昼から書類整理。翌日の役所や施設の引き渡しなので、2人で書類や順番の確認や預貯金と領収書の整理。

30日月曜日は最後の施設引き渡しに行って来ました。母の部屋の掃除と整理。持ち帰った荷物は仕分けして我が家で処分。役所はなぜか凄い人で待ち時間も半端なくて、私は市民課担当で介護保険に後期高齢者はだんじりさんが担当し完了。同居していない家族が相続するのは書類が別に必要らしく、厚生年金と施設の書類作成に清算はまた後日になりました。役所の後はまた施設に戻り役所で渡された書類の作成依頼。平日しか出来ない手続きが多く、県を跨がると手続きもややこしいですね。


昨日10/1は、朝から買い物に出掛けてから、持ち帰った荷物の整理と再度役所に出す時の書類作成と葬儀屋さんの支払い。100万円以上の送金がATMからできず、だんじりさんに再度行ってもらいと、何をするにも今はややこしい。手続きにや支払いに忙しい数日間でしたが、今日から我が家もやっと普通の生活に戻れそうです。


親を見送るって大変ですね。

心の準備なく亡くなる形が、こんなに変な気分になるのも初めての経験でまだ実感なくて、遺影を見ながら線香をつけるたび涙が流れる日が続きそうですが、義父との約束も守れたので『4人ともありがとう』って思ってくれていると思います。

兄弟仲良いおかげで、通院の半分は弟夫婦も行ってくれ、何をするのも相談できる関係の弟嫁は本当に有難い存在でした。少し落ち着いたら、4人でお泊まりして思い出話したと思っています。


『お父さんもお母さん居なくなって、家も売却したから一気に寂しくなったね』と話したら、『母は偉大やな』とだんじりさんがひと言。それと『長い間世話になったな。ありがとう』と言ってくれるだんじりさんに更に涙したありすですが、彼の切り替えの速さは義母譲りなので、疑問がいっぱいの一面もありますが、いつまでも悲しんでいてもと思って、私も気持ち切り替える事にします。



お父さんお母さん

嫁いで30年、本当にお世話になりました。皆んな健康に楽しく暮らせるように見守ってください。



ありす




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