普段、食べる機会がそうそうない生ハムであるが、もしどこかで巡り合ったときにはその出会いに心から感謝を捧げたい。

生と言えども保存食なので、塩気の利いた味に脂の甘味が心地よい。

モノによっては、塩気がほとんどなく、ただただ純粋に熟成した肉の旨味と甘さが舌先に雪のように積もり溶け広がる。生肉以上に理想的な生肉っぽさ。

その儚さゆえにもっぱらサラダやフルーツと一緒に盛られて出てくると少し悲しくなる。普通にもっと食べたいのである。

 

 

 

 

ちなみに、お値段のはる生ハムはそのまま食べることをお勧めします。

ハムサンドに目的で生ハムを買おうとして叱られたことがある

きなこをまぶされたぷよぷよと柔らかな餅である信玄餅。こういうクッションはないだろうか!?

その柔らかさは他の追随を許さず、柔軟性は限りなく液体に近い固体と言えるかもしれない。

柔らかくも咀嚼すればすぐにちぎれるような脆さはなく、口の中で心地よい柔らかな食感を楽しめる。ガムとは少し違う潤いある噛み応え。

ふにふにと口の中で遊ばれながら、味はしっかりとしたお餅。ちょっと感動する。

 

 

 

 

新しいガムの方向性として海外にアピールできないだろうか。

暑い日にはあっさりしたものが食べたくなるのです。涼しげで食べやすい冷やし茶漬けが力の抜けた消化器官に再び活力が湧いてくる

冷やしと言えども温度はぬるま湯にして、口からも喉へも五臓六腑へもなんの抵抗なく受け入れられる状態で。

ゆったりとしつつもよどみなく体に流れ込みつつも、ご飯の一粒具材の一切に宿る旨味という旨味と香りを全身全霊で享受する。

食べるまでは、体力を奪われて空腹感すら怪しいけれども、食べたとたん。何杯食べれば満足できるのかを訝しんでしまう。

 

 

 

 

味つけや具材を変えた幾多の冷やし茶漬けをわんこそばみたいに食べてみたい。

夏の浪漫である。

最先端の技術って凄い。いろんな味や香りを科学的に再現する甘味料とか、料理を彩る着色料とか保存期間を延ばす加工方法とか技術が更に進んでいく。

で、その技術の一端をかき氷を食べた瞬間、驚きに震えた。

この氷のふわふわ感は何物だ!!そもそもスプーンを氷の山の中に何の抵抗も無く沈んでゆく。その軽さ柔らかパウダースノーの如くきめ細やかである。

口の中に含んだ瞬間に氷が消えるのは何事ぞ!!口の中で、シャリシャリとした氷の食感を感じる間もない。故にキーンと頭痛に悩ませることものない。綿菓子すらもう少し口の中で含んでいられるというのに。

 

 

 

 

それでいて、これぐらいでは驚くのはまだまだだという。

底知れぬかき氷のふわふわ感に戦慄と好奇心を覚える。

カツである。コッテリ揚げ物のカツである。

その揚げるものは脂身の少ないササミであり、さらに大根おろしやポン酢であっさりとさせ、あまつさえきめ細やかに千と刻まれたキャベツと食べる。それでもなお、しっかりとカツを心ゆくまで堪能できる。

サクサクの衣に、食べ応えのある肉の層。肉汁は出ない代わりに高密度の肉々しさ、むしろ高純度のタンパク質の結晶を食べてると思える。

淡泊な味なので、どんな味付けにも相性が良いのもまた嬉しいところで、ソースやタルタルソースとあっさり(ササミ)、こってり(カツ)、あっさり(キャベツ)、こってり(タルタル)の層が不思議と調和しておりまたご飯が進むのである。

 

 

 

 

密度の高さから、一味違う満腹具合も嬉しいところ。

シャキシャキとした野菜炒めを作る方法はある種の秘伝奥義だと思う。

好き勝手に野菜炒めを作っても、野菜の水分が鍋の中に溢れてペチャペチャになってしまうからである。

使う野菜の問題もあろうだろうが、シャキシャキ感を野菜に閉じ込めつつ香ばしく仕上げる技には、一朝一夕では得られる何かがあるハズと疑うことなく信じている。

そう考えると、個人的理想に基づいた野菜炒めにタダナラヌ美味しさを感じてしまうのも無理もないだろう。野菜の甘味や渋味に塩加減。そして、ゴマ油の香り一見ありふれたアジの組み合わせの織りなす美味なる完成図に膝から崩れ落ちることだろう。

 

 

 

 

自作野菜炒めに大きなコンプレックスを抱いているからとも言える。

炒めてるのか煮てるのかわからなくなるぐらいだし

【8月19日追記箇所】場所を更新しました。

 

ゆるゆるな交流会目的でオフ会を開きます。
ご都合があえばお気軽にご参加くださいませ。

 

日付:8月25日(金)時間:10:00~12:30

費用:自身の飲食代。

場所:cafe la voie

   ※直接、会場にお越しくださいませ。

   ※席は、下のぬいぐるみのある席を目印にしてください。

     

 

コメントかこちらに参加表明を頂けるとうれしいです。

参加表明なしで、直接お越しいただいても途中参加でも大丈夫です。

 

ちょっと時間が余ってるのでココで潰してみようとか、

(多分)食べることが好きそうな人と話してみたいとか、

交流の輪を広げてみたいとか思っている人は、

是非、どうぞ。

季節は夏真っ盛りであるが、季節的に一足早く秋刀魚を食べる。「もう我慢できない」とも言える。

じゅわじゅわと網の上で焼けて脂が溶け溢れる身に大根おろしと醤油も素敵だが、最近、すだちを力強く推したい。

口の中でぺたぺたする脂がすっきりと洗われ、お刺身を食べているかのような食べやすさにほのかな柑橘系の香りが邪魔することはない。

邪魔どころか新たなるおかずのあり方を主張するかのような美味しさに説得されてしまうという方が表現としてはふさわしいかもしれない。

 

 

 

 

今日のネタが秋刀魚の理由は8割ほどは、すだちが原因むしろすだちの啓示で書いている訳だし。

お皿に盛られたアジの開きを食べるのも趣深いが、今なお炭火の中で焼けるアジをお箸でほぐしながら食べる状況に無情の喜びを感じる。

パチリパチリと炭火の熱がアジの身を温め、パチンという脂の音だけでご飯が進みそうになる。

白身魚の淡泊であっさりとした脂なのに、こうまで大根おろしと相性が素晴らしいのは何故なのか。乾物で旨味が凝縮されているので焼いてそのまま食べてもまた美味し。

こうまで乾いた魚の身になお脂がのっており、炭火の熱で溶け爆ぜる。なんと笑みの溢れることなのか。

 

 

 

 

という御託は良いので飯食いたい。

漢字で書けば栗饅頭であるが、自己表現的にくりまんじゅうはひらがなで主張すべきという持論を展開したい。

ころころと小さくかわいいく、ふっくらふかふかした皮にしっとりと楚々としたくりあん。無邪気な幼児のほほえみを向けられたようにその場を和ませ笑顔にしてくれる。

渋茶で口の中を湿らせて甘味を受け入れる態勢を万全に整え、まるでかぐや姫を抱き上げる竹取の翁の如く、くりまんじゅうを頬張る。

口の中の渋味の枝先に枯れ木に花を咲かせるようにくりまんじゅうの皮と餡の甘味が花開く。

 

 

 

 

体は和みに和みながらも、口の中が美味しさの華の満開となって咲き誇るのでした。

めでたしめでたし。(主に頭が)